台湾海峡海路の中継地として17世紀から各国の船舶がこの海域を航行し、当時の海図には烏坵嶼 (Ockseu Island) と記載されている。 1840年のアヘン戦争後、烏坵は開港された廈門および福州の中間地点であることから航路上での重要な位置を占めるようになった。1874年にはイギリス技師ヘンダーソン(David Marr Henderson)とロピナルド(John Ropinald) によって灯台が建設された。 1943年から1945年にかけて、烏坵は日本軍によって占拠された。当時、烏坵は湄洲島と同じく第四行政督察区が管轄する行政区域であった。1949年、大陸の中国国民党率いる中華民国政府が崩壊すると、烏坵は一時無政府状態となった。 当時の烏坵は灯台の保守要員とその家族、そして出漁に際して立ち寄る漁民程度しか立ち入らないのどかな島であったが、国民党兵が流入してくると状況が一変した。元来物