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あとで読むと原爆に関するyosi0605のブックマーク (2)

  • 熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    私の両親は、日の植民地だった朝鮮の慶尚南道(キョンサンナムド)から渡来しました。翌1940年、私は広島市で生まれた。韓国は生みの親、日は育ての親のようなものです。 人間には知恵がある。互いに引くところは引き、話し合えば片づかないものはないというのに、なぜ争うのか。政治は分かりませんが、喧嘩(けんか)してもどっちにもマイナス。その最たるものが戦争です。5歳だった「あの夏」は忘れない。 その時、家を出るところでした。自宅は爆心地から2キロと離れていなかった。でも海抜約70メートルの比治(ひじ)山が、熱線を遮ってくれました。家屋は全壊し、意識が戻り最初に記憶しているのは、私らをかばって覆いかぶさっていた母の血の赤い色。先に逃げなさいと言われ、近くのブドウ畑に避難した。人肉の焼ける強烈な臭い。叫声を上げながら、近くの猿猴(えんこう)川に飛び込み亡くなっていく人々。夜通し続くうめき声。 2日ぐら

    熱風私をかばった母…元プロ野球選手 張本勲さん 75 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 加藤春江 1945年8月6日

    加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。べるものがない時だったので母は喜んだ。

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