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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/reikon (11)

  • 1月1日 - tapestry

    はじめまして2011年。私は近藤令子というなんのへんてつもない人間です。性別は女性。一児の母親。夫の働く会社の仕事を少しばかり手伝いながら、毎日を小さな作業と細かい思索を重ねながら過ごしている平凡な人間です。この頃、気にかかることといえば、2才半になろうとしている小さな男の子に翻弄され、ときに自分を見失い、投げやりな気分に襲われる瞬間が多いこと。13才になった愛犬の動きがどんどんスローモーになっていて、獣医で受ける検査で毎度毎度、何かしら悪い数値が発見されて、老化を目の当たりにして憂になることも。その一方で、幸福を感じるときといえば、私を振り回す息子と、夫の弾けるようなエネルギーに触れてなんとか自分も前進する力を与えられていると感じる瞬間。誰かから求められると人は元気になるというけれど、やはり自分も人に生かされていると実感しています。さて、2011年。今年はあなたとどのようにおつきあいし

  • 嫌な相手は自分に似た人 - tapestry

    実は、身近に二人、苦手な女性がいるんですね。 ひとりは自分よりうんと若い女の子で、もうひとりは自分よりおそらく10ぐらい年上の女の人。 一度か二度ほど摩擦があって、それ以来、なるたけ気にしないようにはしているのですが、何かにつけて癇に障るといいますか、相手の言動を考えると気持ちがムシャクシャするわけです。 で、今もそういう気分になっていたわけなのですが・・・。 ふっと、洗濯物をたたみながら気付いたことがあって、それは、  その人たち、実はすごく自分に似ている。  ということだったんです。 若いほうは、若かった頃の自分の様子にそっくりだし、年いってるほうは、おそらく自分があと10年経ったらこんな風になってそうだなあ、という感じの人なんですね。 結局、自分が嫌だなあ、欠点だなあ、と思っているところをその相手から感じて嫌悪感を持ってしまったり、あるいは自分が得意としている長所をその相手から感じて

  • はてなって「これでもか」というほどまだまだ無名 - tapestry

    これまで何度も体験してきたことですが、やっぱり今でも体験することがあります。そして「ああまだまだだなあ」と実感して首をうなだれ、そして「もっともっとがんばらなくちゃあ」と気合いをいれることがあります。それは知り合った人との会話で「はてな」という名前を出しても「?」とまさに「はてな」な顔をされて、「はてなってまだまだ無名なんだ」と思い知らされること。はい、「何を今さら」とかおっしゃる皆様、もちろん前々から存じておりまして、何度も実感していることなのですが、たまにはそのことをブログに書いて情報共有(?)したいと思い、ここに記しておこうと思った次第です。今日は夕方のお散歩で近所の犬好き一家と立ち話しておりまして、その方、副業でネット通販をなんと1999年からやってらっしゃるといいます。”そんなに古くからネットの仕事をしていたら、はてなのことも知っているに違いない!”と喜びいさんで、「う、うちもネ

  • 今週のお題:父の日 - tapestry

    なぜか母の日よりも重要度が低い感じの父の日。今まで父の日に何かしたかというと、たぶんしなかったことのほうが多かった気がする。今年は、大阪の実家の父には好物のビールを、三重の彼の実家の義父には近所の酒屋の店主が絶賛しているお酒を送った。父の日。距離が開いたからこそ、こうして贈り物のひとつも送れるようになった。一緒に暮らしていたときには、とてもじゃないが、感謝の気持ちを表す気にはなれなかった。親は、ただ親であるというだけで子供を支配できるものだ。今、大人になって思うのは、私の父は理不尽な支配者だったということ。子供にとって、親は絶対だった。特に小学生や中学生の頃は、抗おうにもどうしようもなかった。かといって、親は決して完璧な人間ではなかった。だから子供心にさんざん納得のいかない思いをしたものだ。あの支配下には、もう二度と戻りたくないと思う。今、自分が親になって思うことは、絶対に子供を自分の身勝

  • よろこびと感謝と - tapestry

    life写真は、同じ様子で昼寝する父と子。id:jkondoがはてなハイクでご報告したように、昨日、元気な男の子を出産しました。高齢出産であることや、早産の危険性があって安静を命じられていたことなどで、不安の多い妊娠生活でした。妊娠中にアメリカからの帰国、東京から京都へのオフィスと自宅の移転など、大きな出来事もあり、心身を酷使した時期もありました。後期は予定日を過ぎても陣痛が来ず、せっかく来た陣痛も格的にならず、二日間も自宅待機となり、10分ごとに押し寄せる痛みに耐えながら二昼夜寝られなかったことなど、最後まで苦しい状況でした。出産後、一夜明けたら体のふしぶしが痛く、けっこう壮絶だったのだなあ、と振り返っています。正直なところ、もう当分は妊娠はごめんだ!とトラウマ状態になっています。きっといつかその辛さも忘れるのでしょうが。痛みに耐えているとき、いろんなことを考えました。闘病などで、この

  • 2:1の割合で - tapestry

    「耳がふたつで、口がひとつなのは、人の話を自分が話す量の倍聞くため」、といったことをや新聞のインタビューなどで目にします。人間の耳と口の数が、こういう教訓めいたことに関係しているとは思えませんが(犬やだって同じだし)、この2:1の割合は、人とのコミュニケーション術として大事にしたいバランスだと思っています。去年、我が家に若い男の子が遊びにきて、二時間ほどランチを囲んでおしゃベリをしましたが、その彼、ひたすらえんえんと自分の仕事に関する話をし続けて、帰るまでずっと「自分のやっていることがどんなことか」「人からどのように認められているか」「自分の所属している組織がどんなに立派か」「今後、どのようなことで手柄をあげたいか」、などの話で終始しました。我々も彼との出会いが久しぶりだったので、あまり口をはさまずに聞き役に徹したのですが、さすがに見送ったあと「あれだけ自分の話だけしかしない人間は珍し

  • はてなで中国四川省の大地震救援金受付もはじまりました - tapestry

  • 辛口のことばを受けとめる - tapestry

    先日、自分の現状について知人から辛口の助言を受けた人が、そのことでひどく立腹し、傷ついている様子を見ました。「たしかに自分はこうこうだけど、あの人から言われる筋合いはない」といった感じで怒っているのでした。おそらくその人たちの交流関係は途絶えてしまったことでしょう。客観的に見たり聞いたりしていると、どうも人から言われた自分の現状について、人もまったく否定しているわけではないようです。ただ、自分でもうすうす気付いている自分の問題点を、他人から指摘されると、つい自己防衛に走ってしまい、「これが自分なんだから」と開き直り「あの人に言われる筋合いはない」という気持ちのほうが強く出てしまうようです。たしかに、自分のことを守れるのは自分自身だし、自分なりに一生懸命生きているわけなので、他人からとやかく言われたくはありません。私も、自分のことを批判する人、ふるまいをただそうと苦言を呈する人のことをうと

  • ゆるしてくれた人たち - tapestry::reikon

    20代なかばまでは大阪で、後半は京都で暮らしました。若さにまかせて好き勝手にふるまった時代でした。何でも自分が中心で、何だって自分の思うままにできると思っていました。好きな人とだけつきあい、約束を簡単に反古にし、原稿の締切を平気で遅らせ、好意を寄せてきた人たちを笑顔で裏切るような若い女の子でした。こんな風に書くと、どれだけひどい人間だったんだと思われかねませんが、今の私が当時の自分をふりかえると、やはり赤面してしまうような、青く、未熟な日々でした。今でもその頃のことをふりかえると、穴があったら入りたいような気持ちになります。そんな苦い思い出のある、様々な人に迷惑をかけた京都に私は戻ってきたわけですが、先日、大変お世話になった年配の方からメールをもらいました。当時のお礼と共に携帯電話の番号を書いて返事をしたら、数日後に電話がかかってきました。「戻ってきて嬉しい。また会おう」と明るい声で歓迎し

  • じぶんに必死なひと、何かに必死なひと - tapestry::reikon

    世の中には、じぶんに必死なひとと、何かに必死なひとに分かれているように思う。じぶんに必死なひとは、何をやってもじぶんがどう評価されるかとか、じぶんがどうだったかという「じぶん軸」でものを考えたり取り組んだりしている。何かに必死なひとは、じぶんがどうのという基準ではなく、何かを成し遂げるためにその何かに夢中で取り組んでいる。そして、その何かをやったじぶんについて言及されても、ひょうひょうとしている。私自身は、あきらかに前者だ、と思う。個人的な体験からその理由を考えると、子供時代にどれだけ親や周囲から愛されたか、あるいは自分の言動を無条件に認めてもらえていたかで前者と後者に分かれてくるんじゃないか、と思っている。もちろんそれだけが理由じゃないけれど、私の場合は小さかった頃、周囲からの無条件な愛情に飢えていたり、自分のふるまいを受け入れてもらいたいのにもらえない、という欠乏感を感じていた。だから

  • 「おとしどころ」を考える - tapestry

    ついつい人にいちゃもんをつけて、もめたりする人がいますよね。私も昔はけっこう自分の気に入らないことがあると、ひたすら批判したり、まっこうから反論するなど、一方通行な態度で場を乱していたことがありました。今でも自分の腑に落ちないことがあると、言いたいことは言うほうですが、最近は自分の言葉を選びつつ「その先、どうなったらうまくいくか、お互いハッピーになるか」ということを頭で考えながら発言するようにしています。おとしどころ、っていうのでしょうか。それを考えながら相手とやりとりするだけで、ずいぶんと話はましなものになる気がします。やはり異なる人間ですもの、主義主張をそれぞれに持っていて、それでぶつかりあったり、もめたりするのは当然です。でも、そこで戦闘機同士がぶつかって墜落しちゃうように、激しくやりあうだけやりあって、結局何もかもうまくいかず、人間関係も気まずくなるようなもめ方はしたくないですよね

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