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山里亮太さんと蒼井優さんの結婚について、コメントが炎上している宗美玄さんについて思うところがあったので書きます。 こちらは女性目線でもブサイク目線でもなんでもなく、ただの私目線での話です。 まず彼女の発言の真意。彼女の釈明ツイートを読んで、私が考えたことを書く。私自身を彼女に重ねてしまっている部分があり、こういう解釈もありなのでは?という話だ。 恐らく彼女は今まで自分の外見で損をしたり傷ついたりしてきた経験が多いのだと思う。彼女がツイッターのプロフィールに"外見ことに触れられると嫌がります。"と書いているのは、これ以上傷つきたくないからだと思う。 自分の外見が良くないことが原因で、外見に対するコンプレックスが原因で、死を考えるほどに思い悩んだことがある人はどれくらいいるだろうか。私は過去何度も自分の外見が嫌で散々悩み苦しんできた。彼女も私と同じなのではないかと考えて、彼女の発言を私はこう解
2019年6月5日、元号が変わって1ヶ月経ったところで対した代わり映えのある日常に変わったわけでもなく、常にニュースではいつ歩いている道路に突っ込んでくる自動車に対してどう対処しなければならないとか、年金もらえないから2000万円貯めなければならないみたいよとか、沈みゆく日本を眺めるだけ、みたいな話題で持ちきりのなか滅入っている毎日で、今日も眠れず丑三つ時、という状況に飛び込んできたTwitterでの新聞記事のキャプチャ画像。 少し睡魔が近寄ってきてさあ眠ろうか、といった寝ぼけ回路には刺激の強すぎる文字列と、ワンショット×2の何ともミスマッチなコラージュ画像。いや、ミスマッチどころか接点を探すほうが難しいくらい予想の外に飛び出した男女の組み合わせ。そこには「山ちゃん 蒼井優 結婚」と、強い単語が3つ、並んでいた。 「夢なんじゃないだろうか」。とっさにそう思い、眠気もあったことでその場はすぐ
自分は所謂キモくて金のないオッサンだけど、南海キャンディーズの山ちゃんが蒼井優と結婚したと言う話を聞いて、朝からモヤモヤしていた。 なんでかなあとずっと考えていたんだが、多分答えは単なる嫉妬ではなくて(多分にそれもあるだろうけれど)ある種の自己肯定感の喪失にあったのだと思う。 そもそも自分はあまりテレビを見ないから山ちゃんについての知識など大して持ち合わせていないが、把握している限りにおいては、彼は「キモい」というのをキャラにしていた。 無論、実際に彼を本当にキモいと思うかどうかは人それぞれだし、思うに彼は決して容姿端麗ではないにせよそこまでキモくもないのだけれど、何れにせよキモいのを売りにしていたわけだ。勿論、キモいを売りにしている芸人何てざらにいるから、彼が売れたのは単に容姿や行動の奇抜さによるのではなく、本人に才能があったからには違いない。だから、何の才能もない自分とはそもそもスター
古代ローマ史には「人類の経験のすべてがつまっている」と言われる。 ではブルマの歴史には何がつまっているだろうか? ブルマを覗くと慣習との戦い方が見えてくる。 束縛するファッション ここしばらく「#KuToo」の記事をよく見た。 スーツも革靴も嫌いな俺としては、この風潮を歓迎する。ハイヒールやパンプスのような非合理的なファッションは、労働の現場から消え去ったほうがいい。そもそも会社の指定した靴により足腰を痛めたならば、それは労災である。労災のリスクが高い服装を強制するのはどう考えてもおかしい。 しかしながら、この時代にまだハイヒールやパンプスを強制してくる会社の意識を変えるのは難しい。合理的な思考をする会社ならば、すでに靴を自由化しているか、逆にかかとの高い靴を禁止しているはずだからだ*1。今も頑なにハイヒールを求めるということは、そこにある種の信仰を見出しているのだろう。 どうしたら非合理
育休復帰直後の男性に転勤を命じたのはパタハラか —— 。 夫側が育休明けすぐに転勤を命じられたとしてこれは「見せしめではないか」と批判を浴びていたカネカは、6月6日に会社ホームページで公式見解を発表し、対応に問題は無いとした。 筆者は15年以上、共働き家庭を取材してきた。カネカの事例は仕事と家庭を巡る日本の常識を変えるきっかけになると思い、注目している。 特に大きな変化を感じたのは、当事者であるご夫婦とメディア・世論である。また、こうした社会規範の変化についていけていない企業の実状が浮かび上がったところも興味深い。 今回、多くのメディアや性別を問わず有識者が会社に対して批判を寄せたのは、法的な観点からではない。男性も自らの選択に沿って家庭参加できることが望ましい、という価値観が共有されつつある中で、新しい社会規範を理解しない会社のありようが時代遅れとみなされたからである。 この点、適法性に
第5回、ユニバーサル哲学カフェについてご案内します。 今回のテーマは「マイノリティであることと恋愛・性」です。 皆様こんにちは、八木智大です。 かつて私は恋愛について悩んでいました。好きな人、といっていいと思うのですが、その人に対し、吃音があってコミュニケーションがうまくいかない、しかしどこかに光るものがある(恥ずかしながら本気でそう思っていました/います)自分を、あの人であれば理解してくれるはずだと幻想の役割を押しつけ、その押しつけに相手が嫌気をさし親しく話すことができなくなり、しかしその幻想にすがるしかない私はしつこく追いすがり、ついぞ会うこともできなくなりました。 それから幾年か悩みましたが、自らのマイノリティー性に自覚的な人々と交わりはじめたことで、回復していきました。コミュニケーションができないという感覚は小さくなり、恋愛のようなものは起こるべくして起こるのだから、気にやまずとも
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