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ブックマーク / www.cscd.osaka-u.ac.jp (15)

  • 国民国家:Nation State

    至高なる領域としての国土(=国家が空間的に占有している領域)を政治的に統治している民(people)が国民(nation)としての統一 性やまとまりをもつ[ないしは、もたせようとしている]国家を、国民国家と呼ぶ。 それゆえ、国民国家概念は、国民=国家=領土の一致(=三位一体)をもとにする法的擬制のことであり、国民国家という形態は、民主主義ととも に、常に最善で最良のものではない。経済と文化のグローバリゼーションおよび、世界的規模での移民の存在や、個々の国民国家内における統治の破綻から生じ る難民の発生は、国民国家という統治方法が限界にきていることは明らかである(ハンナ・アーレントによる誕生の時点から破綻しているという/それは難民の 存在によって裏付けられている:「ハンナ・アーレント「国民国家の没落と人権の終 焉」ノート」)。 国家と国民は主権(sovereignty)をもつことを自ら任じて

  • 田辺繁治「生き方の人類学」解説ノート

    田辺繁治『生 き方の人類学』講談社、2003年:解説ノート My life is the opposite of how I see it. I think all choices are painful, but I don't think the choices are painful for me. - Isaiah Berlin 「悲劇的な人生 を送らなかった人間がどうして悲劇的な選択をこれほど強調し、内的な衝突に苦しめられている人たちにこれほど共感するのか。彼の答えは簡単だった。『私の 人生は私の見方とは反対である。私はすべての選択は苦痛に満ちていると思うが、選択が自分にとって苦痛だとは思わない』。もしそれが当だったとしたら、 彼の仕事は、自分自身の人生ではなく、自分以外の人の生き方を想像する能力に負っていたのである」(マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』石 塚雅彦

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    yuiseki 2017/11/23
  • 犠牲者非難(victim blaming) - 仮想 医療人類学用語辞典

    犠牲者非難とはvictim blaming の訳語で「その人の不幸を自業自得であると非難する」という言語行為をさします。 「肺ガンになったのは、おまえがタバコを吸っていたからだ」 、「性病になったのは、遊びすぎたんじゃない?」 、「いじめは、いじめられる側にも原因がある」という構図をもつ責任追及の論理で、病気になった「犠牲者」を結果的に非難することです。これらは、原因と 結果を客観的に関連づけるという検証思考を停止して、《自分がそう思う偏見を自己正 当化する完全な誤った判断》です。 ドメスティクバイオレンス(DV)、デートレイプやデートハラスメントなどの犠牲者に対して、あ なたがしっかりしてなくてはいけないという慰めの主張の根拠にもこの犠牲者非難があるものがあります。 心理学における共依存という仮説も、しばしば犠牲者非難として誤用される可能性があります。 病気になるのは人が養生しないから

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    yuiseki 2016/02/22
  • サイバー倫理学:Cyber-Ethical-Atnrhopology、あるいはインターネット倫理(internet ethics)

    サイバー倫理(cyber ethics)とは、サイバー空間における倫理や道徳さらには法学にも関わる事柄のことである。現今におけるサイバー空間の多くはインターネットのことを さすので、インターネット倫理(internet ethics)ともいう。 「規範の存在は、そこからの逸脱を暗黙のうちに想定している。逸脱の社会的定義は制裁によっ て明確に境界づけられるというのが機能主義的な考え方である。インターネットでおこっている事柄が現実社会の運用規則に抵触しない場合は、それ自体が問題 になることはない。だがインターネットを生きている人たちは、慣習法則に則って自分の身の回りに道徳を構築している。道徳が慣習にゆらいする由縁である 。そこには多様な解釈の共同体が存在する。意見の相違は人畜無害な学問的議論や世間話のレベルで終わることが多い。ただしその問題が一種の客体 化をとげて、我々の行動を拘束したり、感情

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    yuiseki 2013/07/05
  • 人は社会との関わりあいのなかで学ぶ:People learn by interacting with society

    社会的実践がくりひろげられる場を実践コミュニティないしは実践共同体(と もに community of practice)という。学校や職場など。人びとは実践コミュニティ [実践共同体とも言 う]において、さまざまな役割を担い、行為することで、実践共同体を維持することに貢献する。実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practice)とは、参与者(参加者)が、ある集団への具体的な参加を通 して知識と技巧の修得が可能になる場のことである。また、そのような参加者の社会的実践がくりひろげられる場も総称して、実践共同体あるいは実践コミュニ ティ(community of practice)という。 人間の社会集団にとって、なぜ実践コミュニティが重要になるかというと、私は「(人間の認識にお ける)文脈における理解とは、身体性を必要とするからである」と思う。(→「現場力」「ZD

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    yuiseki 2013/07/05
  • Theories and Practice on Dis-communication ディスコミュニケーションの理論と実践

    授業科目名:ディスコミュニケーションの理論と実践 単位数:2単位 英語表記:Theories and Practice on Dis-communication 授業コード:360109 受講人数:定員20人 担当教員:西川勝、池田光穂、西村ユミ、ほか 対象:全研究科大学院生、3年次以上の全学部生、社会人(5名程度) 開講時間:第1学期=木曜5限(4月12日~) 開講場所:豊中キャンパス、基礎工学部 403講義室(B棟に隣接するA棟部分)[マップ] 第 1回 4月12日 オリエンテーション、ディスコミュニケーションとは…………………… 西川 第 2回 4月19日 ディスコミュニケーションに関する理論(1)「理解 と誤解」…………西川 第 3回 4月26日 グループワーク(1)………………………………………………………… 西川 第 4回 5月10日 ディスコミュニケーションに関する理論(2)

  • 偽りのコミュニケーションデザイン

  • 状況論としての正統的周辺参加

    正統的周辺参加(LPP)理論は、通常は学習(=認知過程)の状況論的アプ ローチであると理解されている。 ——その理由はどうしてだろう? 古典的学習理論の立場は、個体が技術と知識を主体的に習得していくことを「学習」と定義する。しかし、そこでは、主体が技術と知識を習得し た時の状況=環境について考慮さていない。その場合の状況とは、環境が個体に与える影響、ならびに個体が環境との相互作用をおよぼすこと、などが含まれ る。 ——とすると、状況論というのは、知識と技術の習得がおこなわれる際には、その状況との関連 づけがおこなわれることが重要であるのみならず、その要素が学習にとって不可欠と考える立場のことなのだろうか? このあたりは専門家の意見を聞かなければならないが、とりあえずそのように理解しておこう。 ——状況論の理解においては、主体が保有する内部と外部が論理的に——あるいは観察状況的に ——切り離

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    yuiseki 2012/01/29
  • 政治的暴力の概念:政治的暴力と人類学を考える(2)

    政治的暴力」を理解する鍵として、私はアーレントの議論に負う。アーレントは、一九六〇年代末からのアメリカ合州国の大学キャンパスを中心と する若い世代による暴力の横溢現象を、国家が戦争を手段として行使する時代の終焉と関連づけて論じている[アーレント 一九七三、一九九五]。 彼女によれば、戦争テクノロジーに依存した暴力を行使することに他ならないが、破壊のテクノロジーが肥大化してもはや限界に達した時、戦争が 意味をもっていた国際関係以外の文脈――とくに革命――において暴力そのものの意義が浮上してくるのだという。その際に彼女の認識論的作業における留意す べき点を指摘しておかねばならない。 彼女は、政治的次元においては、暴力と権力を相矛盾する概念としてとらえている。権力とは「行動する力のみならず、他人と協力して行動する人間 の能力に対応」し、個人においてはそれを所有できないものだとする。つまり権力

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    yuiseki 2010/11/18
    アーレントは権力と暴力を分けて考えたのか
  • 池田光穂 - 実践共同体・実践コミュニティ

    実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practice)とは、参与者(参加者)が、ある集団への具体的な参加を通 して知識と技巧の修得が可能になる場のことである。また、そのような参加者の社会的実践がくりひろげられる場も総称して、実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practice)という。 徒弟制にもとづく伝統的職場、近代社会制度としての職場や学校などでみられる、集団への参与を通 して知識と技巧の修得が可能になる社会的実践がくりひろげられる場を実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practica)という。ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガー(1993)による用語。 人びとは実践共同体において、さまざまな役割を担い行為することで、実践共同体を維持することに 貢献する。その際の学習とは、知能や技能を個人が習得すること

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    yuiseki 2008/06/02
  • 象徴的相互作用論

    人間行動を理解するために提唱された理論的枠組のことで、ハーバート・ブルーマー(Herbert Blumer)が1937年に初めて用いた。シンボリック相互作用論とも翻訳されることの多い、この理論枠組は人間と社会の成り立ちについて次のような3 つの前提を想定する。(1)人間は、外界の事物に対して付与する<意味>に則って行為する。これが「象徴的」と形容する理由である。(2)このような<意 味>は、個人的かつ内面的世界から生まれるものではなく、人びととの社会的相互作用の中から生まれる。そして、(3)個人が出会う様々な社会過程の中で、 <意味>は加工され、修正を受けて発展してゆく。これらが可能になるのは、個人が社会という外界との相互作用の中で<意味>の解釈を積み重ねてゆくという 過程が存在し、これが行為の基礎となっているからである。「相互作用論」と呼ばれるゆえんである。 象徴的相互作用論は、G・H・

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    yuiseki 2008/05/13
  • 社会生物学

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    yuiseki 2008/05/08
  • 持続可能性の意味と医療人類学

    The Meaning of "Sustainability": An Inquiry of a Japanese anthropologist 目次 1.疑惑の用語……、それは〈持続可能性=サステイナビリ ティ〉 2.プロジェクト・ビルディングにおける合理性の起源 3.問題の発生原因に即した制御的介入の必要性 4.制御コストを極小化することが〈持続可能性〉を実現す る:第1の命題 5.要因の特定が易しい例、難しい例 6.コンテクストという外部性の存在 7.コンテクストの取り方次第で〈持続可能性〉の評価尺度 は多元化する:第2の命題 8.結論 1.疑惑の用語……、それは〈持続可能性=サステイナビリティ〉 経済人類学者のクリス・グレゴリーは、1970年代にそ の隆盛を誇っていた文化経済学や経済人類学における「適応」(adaptation)という用語と概念が、今日ではすっかりその権威を失い、そ

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    yuiseki 2006/09/12
  • 科学としての戦争神学

  • フィールドワークとはなにか?

    フィールドワーク (field work)とは、研究対象となっている人びとと共に生活をしたり、 そのような 人びと[インフォーマン ト(informant, 情報提供者)]と対話したり、インタビュー(interview, 面接問答)をしたりする社会調査活動のこと、である。また、フィールドワーカー (fieldworker)とは、フィールドワークをして調査をする人のことをさす。 しかしながら、現地にいけば、誰でも「対象社会を理解することができる」と思い込むことは危険で ある。そもそも、対象社会とはなにか? そして「社会や文化を理解することができる」とは何かについて、ここでは十分に検討されていないからである。(→解釈人類学者クリフォード・ギアーツの「意味のパターン」) フィールドワーカーは、しばしば自分の母国で学んだ調査方法論やその知識を使って、対象社会や調 査対象となる人々のつきあいの中で、

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    yuiseki 2006/07/04
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