なにせ精通が小4頭でまだ9歳の時だった。下の毛も小5の頃には生え揃っていた。地頭が良い上に早熟なのだから手に負えない。 中学受験をすることに関しては異存はなかった。話の通じない同級生には退屈していたので、話の通じる人たちが居る世界に行きたかったからだ。 小4から通いだした日能研町田校でも僕は引き続き抜きん出た成績を修めることになる。 毎週末の全国テストでは小4~小5の間は常時全国50位以内で偏差値75以上をキープしており全国トップテンも珍しくなかった。これは日能研町田校だけだとほぼ常時トップを維持できる成績だった。 全国トップテンに入ると表彰状と副賞として鉛筆1ダースをもらえた。表彰者の名前は校舎に貼り出されるのだが、そこには僕の名前ばかり貼り出されていた。家には鉛筆が溢れかえった。 ちなみに全国1位には一度もなれなかった。2位を2回取ったのみである。常時1位争いを繰り広げている化物が二人