高校生時代には探偵小説誌『幻影城』の読者だった[3]。和光大学人文学部中退。劇画村塾出身。1980年、早川書房『SFマガジン』主催のハヤカワ・SFコンテストに応募した「時を克えすぎて」が小松左京らの目に留まり、翌年同誌より「瘤弁慶二〇〇一(こぶべんけいにいまるまるいち)-戦慄の人間アパート、タチバナ荘物語」でデビュー。ギャグSFのみならず、シリアスな作品やハードボイルドも執筆している。遅筆で中断したシリーズや未完の作品が多い。また、小説を執筆し始めるとなぜか天変地異や大事件が起こるという自称「天災作家」。 豊田有恒が主催していた若手クリエイター集団「パラレル・クリエーション」[注釈 1]をたまり場にしていた[4][注釈 2]。ゆうきまさみやとり・みき、出渕裕など友人に漫画・アニメ関係者が多く、『機動警察パトレイバー』のプロットに参加したり、自身の作品のキャラデザインを頼んだり挿絵を描いても