石井輝男は1965年に『網走番外地』の第一作を撮った後、東映の慰留に応じずフリーになっており[42][43][44]、以降東映とは本数契約だった[44]。このため当時の監督料は脚本・監督料込みで一本200万円だったとされる[45]。本作と同じ年に岡田が『不良番長』を始めようとした際に、監督にやはりフリーの井上梅次の招聘を決めていたら[46]、吉田達プロデューサーが「井上さんだと演出250万円、脚本150万円の計400万円とられますよ。本部長は2400万円で作れって言いますけど監督に400万円も取られたら出来ません。(東映)社員の野田幸男なら15万円で済みますよ」と進言し、岡田が「よし、じゃあ野田でいけ」と監督が野田に変更になったという笑い話があり[46][47]、石井の監督料200万円は当時としては高額のギャラだった[44]。当時、鶴田浩二で年間6本で2000万円[48]、高倉健がギャラ闘