タグ

2019年12月16日のブックマーク (10件)

  • Zガンダム論 サイコガンダムとZガンダムは何が違うのか

  • 官僚制のユートピア デヴィッド・グレーバー - 本と奇妙な煙

    リベラリズムの鉄則と全面的官僚制化の時代 ジョージ・ウォレス「頭でっかちの官僚」 アメリカは根っから官僚制社会 「規制緩和」の罠 実は資格社会のアメリカ とあるエコノミストとの会話 「規制緩和」という名の下で公的権力と私的権力が融合して「全面的官僚制化」が進むという話。 官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 作者:デヴィッド・グレーバー発売日: 2017/12/11メディア: 単行 序 リベラリズムの鉄則と全面的官僚制化の時代 旧来の福祉国家の解体とともに、こうした議論が、決定的にズレているようにみえてきた。あらゆる社会問題に「市場による解決」を押しつける右翼が、獰猛ぶりに磨きをかけながら反官僚主義的個人主義の語り口を採用するにつれ、主流の左翼はますますいわば味気ない防衛的ふるまいにみずからを切り縮めていった。すなわち、旧式の福祉国家の残骸を救出せんとするの

    官僚制のユートピア デヴィッド・グレーバー - 本と奇妙な煙
    Reiche
    Reiche 2019/12/16
    “フォン・ミーゼスのような右翼の批評家も(略)市場が実際には自己統御したりはしないということ、市場システムを動かしつづけるためにおびただしい数の行政官が実際には必要になることを積極的に認めている”
  • 【読書メモ】マーク・フィッシャー著、セバスチャンブロイ、河南瑠莉訳『資本主義リアリズム「この道しかない」のか?』(堀之内出版 2018年) - マラカスがもし喋ったら

    主義リアリズム 作者:マーク フィッシャー堀之内出版Amazon帯 はっきり言わせてもらおう。たまらなく読みやすいこのフィッシャーの著書ほど、われわれの苦境を的確に捉えた分析はない。 ースラヴォイ・ジジェク 帯裏 未来の創造を諦め、ノスタルジア・モードにとらわれるポップカルチャー、即時快楽の世界に放置される若者の躁的ヘドニズム。後期資主義の不毛な「現実」に違和感を覚えつつも、その要請を淡々と受け入れてしまう人々の主体性を、マークは映画音楽小説の中に見出していく。生活世界をめぐる具体的事象から、社会構造に関わる抽象的問題へのすみやかな視点移動は、ネオ・マルクス主義理論の系統を踏まえているが、彼の文章がなかでも読みやすいのは、単なる哲学的思弁に留まることなく、自らの講師、ブロガー、音楽批評家としての生きた経験をもとに発せられた言葉だからだろう。この言葉を通じて、マークは2000年代

    【読書メモ】マーク・フィッシャー著、セバスチャンブロイ、河南瑠莉訳『資本主義リアリズム「この道しかない」のか?』(堀之内出版 2018年) - マラカスがもし喋ったら
    Reiche
    Reiche 2019/12/16
    “新自由主義は実際のところ、国家そのもの・・・・に反対しているのではなく、むしろ、公的資金の特定の運用に反対しているのだ。”
  • la vie du Fukuoka : 現代的内因性うつ

    現代的内因性うつ 2017年03月23日23:53 カテゴリ精神医学読書 臨床精神病理 2016年 No3より ググってみてもなかなか出てこない書籍である。 精神病理学会の機関紙、ということになっているが書店でも入手はできるらしい。 毎号興味深い記事ばかり、とはいかない、何とか読んでみようと興趣を誘う記事だけは読む、という怠惰な私であり、隅から隅まできちんと読むという勤勉な先生方には申し訳ない。 存在の「ひねり」とパロールの「ひねり」 219頁 芝 伸太郎 先生著 である。 一言で行ってしまえば病に関する考察である。 明快、秀逸な記述である。 表題の「ひねり」であるが、何故括弧つきなのであろうか。 まずそこからが謎であり、読み手は疑念、丸め込まれまいという用心、或いは無視する、各人様々であろうし、それでよいのである。 私はmetaphore 隠喩、喩えなのかな、と思ってみたが、これも正解

  • スラヴォイ・ジジェク「誰ひとり悪党である必要はない」 - AztecCabal

    諸手をあげて賛成する箇所と、そういうとこを嘲弄してもしょうがないんじゃないかな、それは左翼の駄目なところじゃ……って箇所が混じりあってて(とりわけ最後の3パラグラフ)、アップは止めようと思ったが、リベラル・コミュニストの十戒が愉快すぎたのでアップしてしまう。ティモシー・リアリー風のこれじゃないけど、Web 2.0的な物言いでいつも気になっている胡散臭さを突いてて面白い。 ただ、IT関係についてジジェクはあんまり知らなげ。ビル・ゲイツまわりの記述には首を傾げるし、そもそもオートポイエーシスなんて古いよ。ネットワークなんとかとかブリンクとか「創発」とか言わないと。Googleの"Don't be evil"についても一発かましてほしかったな。 誰ひとり悪党である必要はない スラヴォイ・ジジェク 2001年以来、ダヴォスとポルトアレグレはグローバリゼーションの姉妹都市となった。スイスの高級リゾー

    スラヴォイ・ジジェク「誰ひとり悪党である必要はない」 - AztecCabal
    Reiche
    Reiche 2019/12/16
    “教育基金に数百万ドルを与えたソロスは、金融投機によって数千人の生活を破滅させ、そうすることによって彼が糾弾する不寛容が勃興する条件を作り出しているソロスと同じソロスなのだ。”
  • 母性社会の問題と超自我・自我理想の崩壊 : 父系(権)社会・母性社会日本の歪み | CiNii Research

    Reiche
    Reiche 2019/12/16
  • WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第2回 資本主義リアリズムの起源、アジェンデの見果てぬ夢

    「未来はわれらのものだ」と言いながら死んでいったサン=シモン、「未来を構築しなければならない」と言いながら自殺していったマーク・フィッシャー、そして「未来はここで終わる」と言ったリー・エーデルマン――。ルイス・キャロルは暗室の中で少女たちの写真を現像し、カール・マルクスは大英図書館で来るべき革命のための書を執筆する。これは、未来と子どもたち、近代と脱近代、革命と反動、19世紀と20世紀、ユートピアとディストピア、メランコリーとノスタルジー、テクノロジーとオカルティズム、そして失われた未来に捧げるエッセイである。 マーク・フィッシャーは『資主義リアリズム』の中で、マルクス経済学者のクリスティアン・マラッツィの議論を引きながら、フォーディズムからポスト・フォーディズムへの変遷には具体的な日付を与えることができる、と述べている。その日付とは、1979年10月6日、すなわち連邦準備制度が金利を2

    WEB連載:失われた未来を求めて 木澤佐登志 / 第2回 資本主義リアリズムの起源、アジェンデの見果てぬ夢
  • asahi.com(朝日新聞社):〈連載―世界変動〉問われる「賢い」政府 - 〈連載〉世界変動

    〈連載―世界変動〉問われる「賢い」政府2009年1月12日11時20分 哲学者のスラボイ・ジジェク氏=08年12月15日、スロベニアの首都リュブリャナ、外岡写す 歴史家でコロンビア大教授のエリック・フォーナー氏=ニューヨーク、中田徹撮影 「100年に一度」とされる金融危機は、震源の米国から津波のように世界に広がった。日も例外でなく、派遣労働者の急激な解雇や経営難に社会が揺れている。 ノーベル賞を受賞した米プリンストン大のポール・クルーグマン教授は「経済を刺激せよ、刺激せよ」と、日に期待する。市場の回復力頼みでは失業などの犠牲が大きすぎるから、ここは政府の出番。金融政策だけではなく、赤字をいとわず巨額の財政出動を、というのだ。 この連載で見てきたように、相互依存を深めた各国は危機の連鎖を免れない。大量の失業を伴う世界同時不況は当面は悪化の一途をたどる。80年前に始まった世界大恐慌の悪夢も

    Reiche
    Reiche 2019/12/16
    “マリ政府は『援助や助言はいらない。ただ、われわれに求めた市場開放を、欧米にもあてはめてほしい』と訴えている。自由市場というのは幻想で、これまでも各国は、自国優先の原則で行動してきた”
  • ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益 - 本と奇妙な煙

    「見えざる手」とアメリカアカシカの枝角 「野獣を飢えさせろ」 インフラ ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益 作者:ロバート・H・フランク発売日: 2018/03/24メディア: 単行(ソフトカバー) 「見えざる手」とアメリカアカシカの枝角 いずれにしても、規制のない市場に対する「見えざる手」理論の楽観的な見方が、反政府主義者の世界観の根であるといってよいだろう。彼らは、規制は不要であるという。なぜなら、自由な市場は市場自体の力ですべてにうまく対処できると信じているからだ。 ダーウィンの競争過程の考え方は、根から異なっている。彼は、さまざまな観察から、個々の動物の利益と、種としてのより大きな利益はしばしば深刻に対立すると考えるようになった。私は「見えざる手」理論がいずれ、ダーウィンのより一般的な理論における特殊な一例とみなされるようになると思っている。リバタリアンにとって大切な信

  • 牧原憲夫『客分と国民のあいだ』 - ミズラモグラの巣で

    安丸の次に読んでみようと思ったのはコレ。こちらも出版時に読んで以来の再訪。自分でこんな文脈を用意して再読することになるとは思ってもみなかった。ちょっと考えてみれば、当たり前なわけだが、とりわけ日のような後進「国民国家」にあっては、「国民国家」を作ったからといって、それに見合った「国民」が用意されているとはかぎらない。むしろ、「国民国家」の創設と同時に「国民」をも創り出さなければならない。このは、そうした「国民」がどこまで作り出せたか、あるいは出せなかったかを論じただ。「客分」というのは、さしあたり「国民」足りえなかった民衆のことだと思ってもらえばいい。 新政府への民衆への期待がどのように変容していったかは、以下の安丸からの引用が明晰。幕府は次第に民衆から見限られていく。 無力になり、権力支配の維持のためにあがいている現実の幕府と、幻想的権威性としての幕藩制が対比されて、現実の幕府

    牧原憲夫『客分と国民のあいだ』 - ミズラモグラの巣で
    Reiche
    Reiche 2019/12/16
    「客分意識」は今で言うと「大きな政府」を望む意識といえるだろうか?