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『死者を弔うということ』by 出口 治明 - HONZ
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『死者を弔うということ』by 出口 治明 - HONZ
生前から、死体を「有機物」と呼んでいた実直な無神論者の父(著者、サラはファと呼んでいた)が、癌と... 生前から、死体を「有機物」と呼んでいた実直な無神論者の父(著者、サラはファと呼んでいた)が、癌との闘いを終えて旅立った後に残された手紙には「遺灰は旧友たちが眠るドーセットの村の教会の墓地に」と書かれていた。サラはとまどう。死んだ後はたんなる「有機物」と言い切っていたファが、なぜ最後の通過儀礼のようなものを重要と考えるに至ったのか。生と死の絆の意味を求めて、世界を転々としてきた国際ジャーナリストのサラは葬送のかたちを訪ねる旅に出る。 スタートは、イランのアシュラ。フサインの殉教を嘆く男たちの涙。(女たちには涙の壺がある。)涙を流すことの効用が語られる。ルスタム(ロスタム)とソーラブ(ソフラーブ)の戦いのように、イランには喪失の悲しみの伝統があるのだ。そして、次はバリ島とバラナシの火葬(炎の陶酔)。シチリアのカタコンベには八千体を超えるミイラ化した遺体が吊り下げられている。サラは、遺体の修復技