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TETRA’s MATH
中島隆博『荘子の哲学』第II部「第四章 『荘子』と他者論 ―― 魚の楽しみの構造」を読んできた。 この章... 中島隆博『荘子の哲学』第II部「第四章 『荘子』と他者論 ―― 魚の楽しみの構造」を読んできた。 この章には大事なオープニングがあり、そこの部分をとばして「魚の楽しみ」と「死の楽しみ」をめぐっての議論を読んできたのだった。なので、その冒頭部分について今回は見ていきたい。 以前、『荘子』の「物化」と、ある一つの区分されたあり方において、「世界の変容」のことを書いた。それは、「今現在のあり方を絶対的に肯定し、新しい存在様式と新しい世界のあり方に逢着する」ということだった。 しかし、たとえ新しい存在様式と新しい世界だとしても、それは編成された新たな「このわたし」と「この世界」なのだから、結局のところ他者と他の世界には開かれていないのではないか、という疑問が生じる。 第四章の冒頭で示されている疑問は、つまりはそういうことだと私は理解した。 そして、「魚の楽しみ」と「死の楽しみ」の議論が続き、それら