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東日流外三郡誌 朝日左衛門尉こと朝日行安物語の形成過程 - Privatter
東日流外三郡誌に収録されている朝日左衛門尉の物語はどう形成され、またそれが出来る以前がどうなって... 東日流外三郡誌に収録されている朝日左衛門尉の物語はどう形成され、またそれが出来る以前がどうなっていたのかを考察してます。 北奥羽戦国史の偽伝といえるもののひとつに、『朝日左衛門尉行安による、飯詰高楯城攻防戦』というものがある。 これは、天正6(1578)年に大浦為信(のち津軽為信)が津軽領主のひとつ・波岡北畠家を滅亡させた後、近隣の五所川原飯詰を領する朝日太郎左衛門尉行安の領地に攻め込むが敗北、朝日左衛門尉は蝦夷の酋長八重・佐助の協力も得て10年に渡り激闘を繰り広げ、天正16年ついに敗北した、というもの。 が、この話は稀代の偽作者・和田喜八郎の偽書『東日流外三郡誌』とそれの影響を受けた本でしか確認できない記述である。 東日流外三郡誌は既に完全否定されており史料価値は皆無であるが、この高楯城に関する記述はその後も一人歩きを続け、さらには『この飯詰高楯城が陥落した事をもって、津軽為信の津軽統一
2018/03/17 リンク