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【吉良義周の墓】赤穂浪士の吉良邸討ち入りでの最大の被害者
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【吉良義周の墓】赤穂浪士の吉良邸討ち入りでの最大の被害者
12月14日は忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日です。正確には15日未明らしいですが、夜... 12月14日は忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日です。正確には15日未明らしいですが、夜が明けてから新しい1日が始まるということで、14日の晩に討ち入りがあったと言われているそうです。もっとも、これも旧暦での話なので、実際は今の1月30日(31日未明)の話らしいです。 さて、その忠臣蔵ですが、私、どうもあまり好きになれない。なんか、吉良さんらが気の毒で。今で言えば、ある種のテロともいえる行為なわけで、忠臣などと刺客らが持て囃されるのは、何か、チョッと違う気がするのです。 今日はそんな気の毒な吉良方の中でも、ある意味、吉良上野介よりも悲惨な目にあった吉良義周(よしちか)公についてです。 吉良義周とは 上杉綱憲(吉良上野介の長男)の第二子として生まれ、5歳の時に吉良家の跡取りとして祖父である上野介の養子となりました。名門の生まれというだけでなく、優れた才能の持ち主だったそうで、将