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大和国における守護
ANo.1 です >直接的には武力を持たなかったので、土豪、国人勢力の武力が必要だった 「南都北嶺」と言... ANo.1 です >直接的には武力を持たなかったので、土豪、国人勢力の武力が必要だった 「南都北嶺」と言われるように、興福寺(南都)は比叡山(北嶺)と並び称されるほど、当時の京都の 宮廷には頭痛の種だったようです。当時は神仏習合で興福寺と春日大社は一体(ともに藤原氏の氏寺・ 氏神)で、比叡山の僧兵と同様に南都の衆徒も春日大社のご神霊をタテに強訴をしています。 比叡山の僧兵が傭兵ではなく比叡山直営?の軍事力であるならば、南都の衆徒もまた興福寺直営? の軍事力ということになり、少なくともこの時点で「持ちつ持たれつ状態」というのはちょっと 無理がありますね。 大和盆地の荘園では現地の有力者が武士団として成長しても、御家人として武家政権を支える という道を歩まず、興福寺の軍事部門を担う中で、自らも成長しやがて自立する力をつけて いったのではないかと思います。 そして、南北朝内乱を経て興福寺の支配力