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小針古墳 愛知県岡崎市小針町 - 墳丘からの眺め
前回のつづき。 県道56号を西へ向かうと、小針町西の交差点にはコメダ珈琲店が。 目指す古墳はその斜向... 前回のつづき。 県道56号を西へ向かうと、小針町西の交差点にはコメダ珈琲店が。 目指す古墳はその斜向かいにあった。 説明文は記されてから47年を経ていた。 小針古墳と大友皇子(第39代弘文天皇)の塚 このあたり一帯は、往時大小14基の古墳があって壮観を呈していたが明治以降開墾のため破壊され、この柵内の小高い円丘俗称、大塚のみが原形を保っている。もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが残存している。 この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある。すなわち今を去る1300年の昔、天地天皇崩御後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人皇子(第40代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮や兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した(西紀672年、御歳25歳) これを壬申の乱よぶ(日本書紀) しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社