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島津侵攻以前にも沖縄が中国だったわけではない
しかし、舜天王統は三世代で終わり(1187〜1259年)、英祖王統の時代となる(1260〜1359年)。このころ... しかし、舜天王統は三世代で終わり(1187〜1259年)、英祖王統の時代となる(1260〜1359年)。このころ、仏教がヤマトの禅鑑という僧によって伝わり、仮名も使い始められた。 そして、察度王(在位:1350〜1395年)という人物が現れ、これが、中山王国を建国し、1368年に中国で成立した明帝国の勧めに応じて朝貢し冊封されることになる(1372年)。 本土では南北朝や戦国の争乱の時代であり、手薄だったといえよう。このころ、南部や北部でも有力な王国が現れ、糸満市の大里にあった南山王国は1380年、今帰仁の北山王国は1383年にそれぞれ明から冊封された。 そして、尚巴志が1429年には南山王国を滅ぼして統一王国を実現した。これを第一尚氏の王統と言う。しかし、七代目の尚徳王を最後に金丸(尚円王)の第二尚氏王統にとってかわられた(1462年)。 明帝国はその初期に積極的な海洋政策をとって、中山
2019/11/05 リンク