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短歌時評第131回 批評にとって短歌とはなにか /後編 吉岡太朗 - 「詩客」短歌時評
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短歌時評第131回 批評にとって短歌とはなにか /後編 吉岡太朗 - 「詩客」短歌時評
三章:「作者」の逃走 1 ところで『誰にもわからない短歌入門』には以下のような記述がある。 短歌の「... 三章:「作者」の逃走 1 ところで『誰にもわからない短歌入門』には以下のような記述がある。 短歌の「うまさ」というのは、時として短歌を損なう。短歌において技術やレトリックというのはあくまでうたの核心を支えるものであるべきで、それ自体が読者にとってのうたの眼目になってはいけないのだ。そういう短歌は単に作者の「うまさ」を読者にひけらかすための手段へと成り下がってしまう。 鈴木ちはね 同書は「一首評」集のような形式をとっているが、「入門書」でもある。だからこのような文章も時々出てくる。「うまさ」というのは通常は肯定的にとらえられるものだと思う。けれど鈴木はその全肯定に対し、保留をさしはさんでいる。けして「うまさ」の否定そのものではないが、「うまければ、うまいほどよい」という価値観を仮想敵として攻撃している。 短歌の韻律を考えるときに、表面に現れてくるものより深部でからみあう母音と子音や拍感を大切