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「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由【2023編集部セレクション】 凡庸だったからこそ、家康の統治を真似できた
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「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由【2023編集部セレクション】 凡庸だったからこそ、家康の統治を真似できた
跡継ぎ育成に失敗していた家康 人質から天下人に成り上がった徳川家康。日本で最も出世した偉人といえる... 跡継ぎ育成に失敗していた家康 人質から天下人に成り上がった徳川家康。日本で最も出世した偉人といえるだろう。 慶長8年(1603)、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた家康だが、そのわずか二年後、息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川が政治権力を世襲することを内外に誇示した。さらに武家諸法度、一国一城令、禁中並公家諸法度、寺院法度などで、政権を危うくする大名、朝廷、寺社と徹底的におさえたのである。 けれど、将軍を隠退して大御所になってからも秀忠には政治を任せず、家康は死ぬまで権力を手放さなかった。このため、死に臨んで家康は、秀忠のもとで徳川政権が続くかおおいに心配したが、それはまったくの杞憂きゆうに終わった。 「凡庸」と言われた秀忠が、じつは極めて優れた為政者だったからだ。いったい秀忠はどのように家康から権力を引き継ぎ、徳川体制を盤石にしたのだろうか。 天下を統一して戦国の世を終わらせた