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増田とイスラムに関するkana321のブックマーク (2)

  • 例の会見で、日本のイスラム法学者が叩かれてるようなので

    中田考さん(イスラム法学者でムスリム)が叩かれてるようなので、ちょっとだけフォローしたい。 (なお自分はムスリムではないし、かの美しいと有名なクルアーン(コーラン)も注釈でしか触れたことがない) ワリと面倒くさい宗教であるイスラーム六信五行なんて訳されることもあるが、ムスリムは義務としての決め事が多い。 判りやすいところでいくと、ザカート(Zakat)というのがあって、これは義務的な施しにあたる。 翻訳の難しいところで、これは税金として解釈されることもあるし、喜捨つまり寄付の一種と看做されることもある。 財産税による社会福祉と言うのが実体に近く、アッラーフに寄進して、それを皆が使う、という再分配機能になっている。 と、言うようにイスラームというのは宗教であるのだが、その根幹が社会制度になっている。 王様が世捨て人を経て悟った宗教とか、大工の息子が突如悟って国教になっちゃった宗教とは違い、

    例の会見で、日本のイスラム法学者が叩かれてるようなので
  • 回教徒の救われない話、もしくは、私はシャルリーではない。

    は宗教に寛容な国であるので、境界線もあやふやで、曖昧だったりする。 例えば、イスラム教徒のことをムスリム(Muslim)と呼ぶということは知っていても、 その認識は、回教徒と呼んでいた頃から変わっていなかったりすることが多い。 襲撃を受けたフランスの新聞が、ムハンマド(Muhammad)を風刺画に書くことの何が問題か、 できるだけ、テロとは距離をおいた形で、少し話してみたい。 日における仏教は、たいてい浄土信仰イスラームの話をする前に、我が身を振り返ってその曖昧ぶりを思い返してもらいたい。 まあ、宗教のテクニカルな話をすると、はてな村のギーク達は「あとで読む」を付けるだろうから、ちょっと例えてみよう。 まず、仏教には「世界はこういうものだ」という物理層がある。輪廻だとか解脱だとかだ。 コレに対するアプローチが、宗派だとか教えだとかになる。 モノリシックカーネルもマイクロカーネルも、O

    回教徒の救われない話、もしくは、私はシャルリーではない。
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