ちょっとお疲れ気味なので休憩します。巡回はこれまでどおり、日常日記とはてなSBMは更新します。
10年ぐらいすると、総合病院で入院を診る内科と外科がいなくなるかもしれない。 総合病院からまた人が抜けた 近くの総合病院で、循環器の病棟守ってた先生が退職されて、「今後当院では循環器疾患を診療することができなくなります」 なんて回覧がきた。 人数規模も、ベッド数も、うちなんかよりもダブルスコアで物量誇ってる施設なのに、 去年神経内科がいなくなって、循環器が抜けた。「頭」と「胸」が守備範囲から外れて、 救急を取ってくれなくなった。今月からはもう入院診ないとかで、かかりつけの患者さんが胸痛訴えると、 「入院の可能性があるかもしれないのでそちらへ」なんて、患者さんが回される。 施設本来の「能力」で言ったら、どう考えたって向こうの方が上なのに。 県内の有名公立施設の麻酔科部長が、やっぱり今度退職されて、もっとずっと小さな病院に移ることになった。 特定の疾患しか診療しない専門施設。補充の当てなくて、
最初に結論を言うと、「あなたのブログのイヤなヤツ」とは私のことだ。ああ、なんて自分はクソッタレなんだろと思う。 それはそれとして、「極東ブログ: [書評]あなたの職場のイヤな奴(ロバート・I・サットン)」(参照)で議論される、職場のクソッタレ(asshole)とネットのクソッタレのことを考えた。サットンによると、職場にはクソッタレ撲滅ルール(No asshole Rule)が必要だということだが、これは職場だからだ。職場というのはゲゼルシャフトなので目的から合理化できる。ひどい言い方をすればクソッタレが目的にかなうならクソッタレ大歓迎だし、社会を見ていると、どうもそういう実態もありなのかもしれないなとも思う。 ネットはどうなのだろう。昨日のニュースだが朝日新聞記事”『死ね』と書き込みされた」高1女子が自殺”(参照)より。 北九州市内に住む高校1年の女子生徒(16)が、「(インターネットの)
聖書に詩篇というのがある。 ⇒詩篇 - Wikipedia 『詩篇』(しへん、ヘブライ語:תהלים Təhillīm, Psalm)は『詩編』とも書き、旧約聖書におさめられた150編の神への賛美の詩。日本ハリストス正教会では『聖詠(経)』(せいえいけい)と呼ぶ。 ほとんどの詩が典礼に用いられた詩と神への感謝の詩に分類することができる。ユダヤ教では「テヒリーム」(賛美)と呼ぶ。ラテン語で詩篇を意味する『Psalmi』は七十人訳聖書における詩篇のギリシャ語タイトル『プサルモイ』(心を動かすもの、複数形)に由来する。ユダヤ教聖書の配列では「諸書」(ケスビーム)の1つ。 「詩」であるとも言えるし日本や東アジア文化的な意味での「詩」かどうかは難しい。ポエムといったものではない。 詩篇はそれぞれが独立した祈祷文として用いられる。 というわけで、「祈り」に近い。 で。 神よ、わたしはあなたに呼ばわり
これを実行に移せるかどうかは、政治の責任だ。各省の官僚や族議員が抵抗している項目を、骨太の方針にどこまで盛り込めるか。福田首相のやる気がすぐに試されることになる。 知事や市町村長の覚悟も必要だ。各自治体の中には、「権限をもらっても面倒なだけ」との本音もちらつく。 分権は、政府と自治体間の単なる権限争いではない。よりよい暮らしを実現するための統治の仕組みの大改革であり、日本の再生がかかっている。住民の側からも改革を後押ししたい。 小泉政権には回顧するといろいろな相貌があった。変容もあった。高橋洋一のようなブレーンも抱えていたが内情が見えるにつれ、小泉の政治的な直感というのはぞっとするものがある。そしてその直感で実は彼はうまく保身もした。郵政改革は畢生の大業で臨んだのだろうが、農政には手を出さなかった。安倍も森派の手前を繕い見殺しにした。そこで彼の終わりだったかはわからないが、高橋が夢見た地方
いかんなキレそうだ。 日本人の心の源流である「万葉の心」について、改めて考えてみるよい機会だろう。 そんなものは明治時代に与謝野鉄幹とかがフカシたもので、万葉の心というは、古今にそして新古今につがれ、並行して仙覚や契沖といった僧侶たちに守られていたものだった。古今にどう受けつがれ、仙覚や契沖がどう思ったか、それをきちんと辿っていかないかぎり、万葉の心なんてわかりゃしないよ。日本近代が生み出した日本古代幻想に浸ってナショナリズムの情感を濃くしていくだけにすぎない。きっこがやってりゃいい馬鹿話だよ、おっとキレてるなオレ。放言放言。 古代の日本人の素朴な感情を率直に表現している。 万葉集が長く読み継がれてきたのは、そこに時代を超えて強く訴える力があるからだろう。 古代日本人の素朴な感情がないとはいわないが、近江朝廷のサロンを壬申内乱でぐちゃぐちゃにして新政府が新しいサロンを引き継ぎ、律令的帝国国
あれほど世間を騒がせた中国製冷凍ギョーザ事件は、真相は闇に包まれたまま、過去の話になりつつある。だが、昨年から今年にかけて次々発覚した日本国内の食品偽装事件のニュースのおかげで、私たちの「食の安全」に対する危機感は一気に増幅された感がある。 一連の問題は、ごく一部の関係者が利益追求を優先して、あるいは、バレなければいいのだという倫理観のなさが災いして、生まれた事件だろうか。 そんな解釈で片付けるわけにはいかない現実を、本書はかなりクリアに説明している。著者によれば、日本の食品業界全体の管理体制の甘さが、構造的に食品偽装の問題を作り出しているのだ。 食品偽装の中で多いのは、賞味期限ラベルの張り替えである。そもそも日本には、製造年月日の表示義務がない。消費・賞味期限も業者が勝手に決めていいというのが通例だ。 もちろん、細菌検査や官能検査(人間の五感を使った品質チェック)などをもとに科学的に期限
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