2020年10月10日のブックマーク (6件)

  • ファイト・クラブ

    Introduction ひとりひとりの、かけがえのない命と皆はいう。でも、ぼくらは唯一無二の美しい雪のかけらなんかじゃない。かといってごみくずでもない。ぼくらはぼくらだ。でも今や都市が世界を覆い、個々の存在は無に等しい。個人主義が進行するほどに、どういうわけかぼくらは個人の無力をより一層痛感する。 ぼくらは財布の中身じゃない。ぼくらは仕事じゃない。ぼくらはスウェーデン製の家具なんかじゃない。でも今、ぼくらはまさにそのすべてでもある。物に囲まれて都市に生きるぼくらは、ほんとうの痛みをいつのまにか忘れている。神経性の痛みばかり抱え込んで、傷つけ、傷つけられることによってぼくと君とを分つ、その痛みを忘れている。痛みも他者も、いまやすべてが頭のなかにある。 そんな時代を笑い飛ばしつつ、ラストにささやかなラブ・ソングを歌う、20世紀最強最期の凶悪な詩。20-30代の立ち位置を確認する、「年齢の高い

  • Microsoft Word - Prospectus-Yamaguchi(校正)

    1 宿命論と人生の意味 ――『ジョジョの奇妙な冒険』第五部エピローグの解釈―― 山口尚 稿は、 『ジョジョの奇妙な冒険』のある場面の解釈を通じて、 「運命」と「人生の意味」 の関係を考察する。はたして、私たちの行為がすべて「運命」によって決定されている場 合に、人生は意味をもちうるのか――この問いへ回答することを目指す。 稿の議論は以下の順序で進む。はじめに、 『ジョジョの奇妙な冒険』 (以下『ジョジョ』 と表記)に関する手短な解説を与え、稿で論じたい場面(いわゆる「ローリングストー ンズ」が登場するエピソード)を紹介する(第 1 節) 。次に、 「宿命論」(1) と人生の意味の 間の一般的関係――宿命論が正しければ私たちの人生は無意味なものになるとしばしば考 えられる点――を確認する(第 2 節) 。つづけて『ジョジョ』で描かれる世界が宿命論的で あることを具体的な「テキスト」に即

  • 表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:第11回大会報告:シンポジウム

    日時:2016年7月9日(土)13:00 - 16:00 会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館1号ホール 松卓也(京都大学)「統合失調症の時代から自閉症スペクトラムの時代へ」 牧野智和(大女子大学)「自己啓発・再帰性・異種混交性」 細馬宏通(滋賀県立大学)「自己観を開く:個の認知から相互行為による認知へ」 〈コメンテーター〉小泉義之(立命館大学) 〈司会〉千葉雅也(立命館大学) 2016年7月9日、梅雨の名残の雨も止んだ京都の昼下がり、立命館大学で開催された表象文化論学会第11回大会は、哲学者・千葉雅也の企画によるシンポジウム「いま「自己」はどこにあるのか:精神分析、自己啓発、アルゴリズム」で幕を開けた。 はじめに千葉により、企画趣旨について短い報告が行われた。シンポジウムは、『表象』02の特集「ポストヒューマン」以来の、21世紀における人間性の変容を問う試みであるという。「非人間

  • メモ(少女・ゾンビ・加速主義)|江永泉

    2000字程度のメモ。「1.スケッチ」と「0.スケッチの前に」からなる。 1.スケッチ 粗く手短にまとめる。――労働=消費の担い手の形象としての少女‐ゾンビは再検討されねばならない。飽くなき消費と疲れ知らずの労働。少女‐ゾンビの担い手は、まさに両者の紛然として見分けがたくなる領域に住まわされている(TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』[2011]、『ゾンビランドサガ』[2018]などを想起せよ。「私の戦場はここじゃない」と呟いて時を繰り返す暁美ほむらと、アタリが出ないからと席替えをするパチンコ廃人との同じさを想起せよ)。だから、疎外された労働者の怪物性を言祝ぐのはアイドルVtuberなどの魔法少女性を言祝ぐのに似ている。この意味では、加速主義と百合嗜好は似ている。――自分以外の何らかの者たちが享楽を独占していると思い込み、しかもそこにある享楽は無限大のエネルギーだと見込みをつけている。―

    メモ(少女・ゾンビ・加速主義)|江永泉
  • 阿部和重『オーガ(ニ)ズム』は2010年代の終幕にふさわしい傑作だーー「擬似ドキュメンタリー的」転回を考察

    『Orga(ni)sm』における「擬似ドキュメンタリー的」転回 ともあれ、その点で、今回非常に興味深く思われたのは、阿部が佐々木敦によるインタビューのなかでつぎのような認識を吐露していることだ。 そういえば、作中でもツッコミを入れてますけれども、いわゆる純文学の中で日常で馴染みのないCIAなどを出してしまうと、途端に嘘くさくなってしまう。「CIAって(笑)」と読者に思われかねないので、ちゃんと実在性のあるキャラクターとして見せる必要がある。そのため、映画批評を書く上では批判的に扱っていた疑似ドキュメンタリー的手法を今回は全面的に駆使しました。新聞記事を引用しまくり、リアリティーを担保することが必要だったわけです。(「アメリカ・天皇・日」、『文學界』10月号、23頁) 阿部のいうのは、もちろん、小説冒頭の『マイ・ドリーム――バラク・オバマ自伝』を筆頭に、実際に配信された新聞社によるウェブニ

    阿部和重『オーガ(ニ)ズム』は2010年代の終幕にふさわしい傑作だーー「擬似ドキュメンタリー的」転回を考察
  • https://library.hgu.jp/pdf/tosho_23_4.pdf