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公卿補任の検索結果1 - 40 件 / 91件

  • 自宅でここまでできる→日本史史料の探し方/集め方(増補しました)

    我々は直接に過去を知ることはできない。 人間の行動や思考が残したさまざまな痕跡を手がかりに、過去を再構成する以外にそれを知る術を持たない。 そのようにして再構成された過去を歴史といい、再編成の手がかりとした痕跡を史料という。 もとより人が残した痕跡は〈書かれたもの〉に限らないが、古文書、古記録をはじめとする文献史料は、長きにわたって史料のなかでとくに優越した地位を占めてきた。 以前は限られた人しか見ることができなかった文献史料が、一部ではあるが歴史資料集として編纂され、刊行物として活字化されることを経て、多くの人が見ることができるようになった。 加えて近年、そうした刊行物はインターネット上で誰でも検索/参照できるようになっている。 以下では、自宅で誰でも(基本的に)無料でアクセス可能な歴史史料を紹介する。 ここで紹介する歴史資料集は、大きく2つに分けることができる。 A.ひとつは各文書・記

      自宅でここまでできる→日本史史料の探し方/集め方(増補しました)
    • 1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか? | THE NEW CLASSIC

      石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。 まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。 それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。 1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そし

        1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか? | THE NEW CLASSIC
      • 今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers

        しかし、せっかく統合されるのだから、近代デジタルライブラリーにあった「明治以降に刊行された」という限定を外せるので、この機会に、近代以前の基本的な辞典類を合わせて、ラインナップをやり直すことにした。 結果として、日本の代表的な辞書の多くを自宅で居ながらにして参照できるようになったと思う※。 ※土壇場で『大日本人名辞書』を入れ忘れたのに気づいたりしたので、思わぬ遺漏はまだまだあると思うけれど。 これまでありがとう近デジ 今後ともよろしくデジコレ 以後は、こちらの記事をメンテナンスしていくことにする。 000 【総記】 100 【哲学】   200 【歴史】 300 【社会科学】 400 【自然科学】 500 【工学】 600 【産業】 700 【芸術】   800 【言語】 900 【文学】 000 総記 020 図書・書誌学 ◯書物語辞典 古典社 編 (古典社, 1939) 書物(図書、読

          今すぐ無料で手に入る150の辞書ー国会図書館デジタルコレクションが提供する日本の辞書を分野別に紹介する 読書猿Classic: between / beyond readers
        • 神武天皇即位紀元#皇紀と安田生命保険 - Wikipedia

          神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年は西暦(キリスト紀元)前660年とされている。 異称は皇紀(こうき)、神武紀元、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)[1]等。 概説[編集] オランダ領東インド(現・インドネシア)を統治した日本軍により発行された外國人居住登録宣誓證明書(身分証)複数の朱印に神武天皇即位紀元(皇紀)が使用されている 日本では明治5年(1872年)に神武天皇即位紀元を制定するまでは、紀年法として元号や干支を使用(あるいはそれらを併用)していた。明治維新後、政府は西洋に倣って、暦法を改め太陽暦を採用するとともに、紀年法として紀元を使用することにした。 明治5年(1872年)、政府は太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告し

            神武天皇即位紀元#皇紀と安田生命保険 - Wikipedia
          • 室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく : 暇人\(^o^)/速報

            室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく Tweet 1: 名無しさん@おーぷん 2015/01/02(金)14:18:45 ID:E25 調べ物のついでに書き留めたメモみたいなものゆえ適当な感じですまん 間違いがれば修正宜しく 2: 名無しさん@おーぷん 2015/01/02(金)14:19:13 ID:2M8 期待するやで 4: 名無しさん@おーぷん 2015/01/02(金)14:19:56 ID:fU6 歴史好きなワイ得なスレ 【事前予約ios版】アニメ「異能バトルは日常系のなかで」の公式カードゲーム 【事前予約Android版】重度の厨二病を患っている主人公達の高校生ライフと萌えるシミュレーション 3: 初代 足利尊氏 享年54歳 2015/01/02(金)14:19:21 ID:E25 御存知室町幕府を創立した英傑だが晩年は南北朝のドロ沼抗争や弟・息子との骨肉の争いなど

              室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく : 暇人\(^o^)/速報
            • 松永久秀 - Wikipedia

              松永 久秀(まつなが ひさひで、永正5年〈1508年〉- 天正5年10月10日〈1577年11月19日〉)は、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名である。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通。 概要[編集] 初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した[7]。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった[8]。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に同じ官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた[9]。 長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上

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              • 竹取物語 - Wikipedia

                『竹取物語』(たけとりものがたり、英語: The Tale of the Bamboo Cutter)は、平安時代前期に成立した日本の物語。「現存する日本最古の物語」[1][2][3]とされて、現在では"かぐや姫"の話として一般的に知られている。現在まで作者、正確な成立年は不明。 概要[編集] 主人公・かぐや姫と竹取の翁 (満谷国四郎筆、笠間日動美術館蔵) 竹取の翁(たけとりのおきな)によって光り輝く竹の中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。 『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」[4]とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。現代では『かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。 題名[編集] 『竹取物語』は通称であり、

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                • 【連載】国史大系をひもとく:第一回 国史大系とはどんな史料集か? | 教育と研究の未来

                  吉川弘文館では、さまざまな史料集を出版してきました。なかでも、黒板勝美によって編纂された「新訂増補 国史大系」は、35年の歳月をかけた大事業であるとともに、日本史研究の根本史料として高い評価を得てきた、日本国内随一の史料集です。その「新訂増補 国史大系」がいよいよJKBooksシリーズとして刊行されました。刊行を記念して、「新訂増補 国史大系」の魅力を連載形式でご紹介します。 以下の図は「新訂増補 国史大系」全58書目について、縦軸に時代区分や年代、横軸にはJKBooksのために分類したジャンル「歴史」「歴史物語」「説話」「伝記」「法制」「補任」「系図」の区分に従って一覧化したものです。今回はこちらの図をもとに「国史大系」についてご説明します。 図:【第3次】新訂増補 国史大系(黒板勝美編/国史大系編修会編、1929-1964、吉川弘文館)の書目分類 「大系」という造語 特定の分野の書物・

                    【連載】国史大系をひもとく:第一回 国史大系とはどんな史料集か? | 教育と研究の未来
                  • 吉備真備 - Wikipedia

                    『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。 出自[編集] 下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族[3]。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される[4]。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。 経歴[編集] 遣唐留学生として入唐[編集] 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。 元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・

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                    • 坂上田村麻呂 - Wikipedia

                      坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。 姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。 官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。 薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。 坂家宝剣では坂家。 生涯[編集] ※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。 出生から征夷大将軍まで[編集] 坂上田村麻

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                      • 結城秀康 - Wikipedia

                        結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主。越前松平家の祖。下総結城氏第18代当主。 徳川家康の次男で、豊臣秀吉の養子となり羽柴 秀康(はしば ひでやす)を名乗ったが、その後、結城晴朝の養子となり、結城の通称で呼ばれるようになった[2]。通説では関ヶ原の戦いの後に越前国を領してから松平姓を名乗ったとされ、松平 秀康(まつだいら ひでやす)と呼ばれるが、一次史料でこの時期に称した名字は明らかとなっていない[3]。 生涯[編集] 出生[編集] 天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村(現・浜松市西区雄踏町)で生まれた[4][5]。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)[4][5]。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。 誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵

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                        • 国会図書館デジコレで中世史! 叢書編 - あとがき愛読党ブログ

                          国立国会図書館デジタルコレクション(デジコレ)がWEB公開している資料は、約35万点。その膨大な書籍のうち、日本中世史の研究に役立つ文献をリストアップするのがこの記事の目的です。 まずはその第一段として、叢書類(日記や編纂物、軍記など)、および中央の寺社の史料類に関してまとめました(文書集や地方史料はまた次回にまとめたいと思います)。 ※誤りや新情報の指摘、大歓迎です! かしここゝにちりぼひある一巻二巻の書をとり集めて、かたぎにゑりおきなば、国学する人の能(ヨキ)たすけなるべし (あちらこちらに分散している少数の書物を収集し、版木に起こして出版すれば、国学を学ぶ人々に大いに役立つものとなろう) ―中山信名『温故堂塙先生伝』より、群書類従刊行を目指す塙保己一の所信。 ※この画像は著作権保護期間満了によりインターネット公開されたコンテンツであり、国立国会図書館ウェブサイトから所定の手続きを経て

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                          • 検非違使 - Wikipedia

                            『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は、日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。 概要[編集] 平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当はない。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。 寛平7年(895年)、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947年)に

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                            • 藤原氏 - Wikipedia

                              藤原氏(ふじわらし、旧字体:藤󠄁原氏)は、日本の氏族。 姓(カバネ)は朝臣。略称は藤氏(とうし)。 飛鳥時代の藤原鎌足を祖とする神別氏族で、多くの公家が輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。 概要[編集] 姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称された。 中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。 奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(摂家)は院政期以降も摂政・関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格を保った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称し

                                藤原氏 - Wikipedia
                              • 武内宿禰 - Wikipedia

                                『日本書紀』景行天皇紀[原 1]では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする[2]。孝元天皇紀[原 2]では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。なお、応神天皇紀[原 3]では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。 『古事記』[原 4]では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる[2]。同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。 子に関して、『日本書紀』[原 5]では平群木菟宿禰のみ親子関係が明示されている。一方『古事記』では、次の7男2女と後裔27氏を掲載する[2](括弧内は日本書紀の名称で、日本書紀にて記述がない場合はなしと表示)。

                                  武内宿禰 - Wikipedia
                                • 電子図書館 古典

                                  【上代】 【古事記】太安万侶(岡島Nihon-Bungaku) #【日本書紀】舎人親王 【万葉集(訓読)】大伴家持撰(大伴家持の世界) 【万葉集】大伴家持撰(Japanese Text Initiative) 【万葉集】大伴家持撰/上代特殊かな甲乙付き(岡島Nihon-Bungaku) 【万葉集】大伴家持撰/lzh(万葉集乃宅頁) #【大伴家持全集】大伴家持(大伴家持の世界) 【中古】 #【養老令】lzh(日本古代史ホームページ) #【日本後紀】lzh(日本古代史ホームページ) #【藤氏家伝上】lzh(日本古代史ホームページ) #【上宮聖徳法王帝説】lzh(日本古代史ホームページ) #【公卿補任】lzh(日本古代史ホームページ) 【竹取物語】txt(松阪大学FTP) 【古今和歌集】紀貫之ほか撰(Japanese Text Initiative) 【古今和歌集】紀貫之ほか撰(Institut

                                  • 建武の新政 - Wikipedia

                                    建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。 後醍醐天皇は天皇による親政を理想とし、建武の新政を行い、鎌倉時代の公武の政治体制・法制度・人材の結合を図ったが、元弘の乱後の混乱を収拾しきれず、延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)に河内源氏の有力者であった足利尊氏との戦いである建武の乱で敗北したことにより、親政は2年半で崩壊し、足利氏が支配する武家政権に

                                      建武の新政 - Wikipedia
                                    • Reference | EACS: 国際協働による東アジア古典学の次世代展開

                                      参考リンク 国内外の関連するウェブサイトをご紹介します。(リスト作成:福田武史) 漢字テキスト検索(日本・一般) 大系本文(日本古典文学・噺本)データベース http://base3.nijl.ac.jp/ 岩波書店「日本古典文学大系」所収テキストの検索(要登録)。 万葉集検索システム http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou.php 『万葉集』の本文・訓・キーワード等検索。 六国史 http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/index.html 六国史の検索。 平安朝漢詩文総合データベース http://db2.littera.waseda.ac.jp/wever/kanshi/goLogin.do 『群書類従』第百二十二〜第百三十三(文筆部一〜十二)全文

                                      • 蘇我氏 - Wikipedia

                                        蘇我氏(そがうじ、そがし[注釈 1])は、「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。 古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。 「蘇我」の表記[編集] 蘇我氏略系図 SVGで表示(対応ブラウザのみ) 蘇我 - 『日本書紀』 宗賀 - 『古事記』 宗我 - 『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』 巷奇 - 『元興寺縁起帳』 出自[編集] 『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていないが、河内の石川(現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)および葛城県(後の大和国高市郡)蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠としていた土着豪

                                          蘇我氏 - Wikipedia
                                        • 宇喜多秀家 - Wikipedia

                                          宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将・大名。宇喜多氏の当主。通称は八郎、備前宰相。 父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏における、大名としての最後の当主である。豊臣政権下(末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。 名称[編集] 「宇喜多秀家」はあくまでも歴史用語である。天正10年(1582年)の元服時には仮名として「八郎」、諱(実名)として「秀家」を名乗り、宇喜多家の家督を継承したが、宇喜多の名字が使われた記録は無い。天正13年の書状では「羽柴八郎」となっているが、その前年には後見人の羽柴秀吉から名字を省略されて「八郎殿」と称されており、名字の省略は大抵は同名だったことから既に「羽柴八郎」を称していた

                                            宇喜多秀家 - Wikipedia
                                          • 1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか? | THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]

                                            石井良助が注目したのは、表の「冒頭部分」という項目です。表記の移り変わりがあることに気づきますね。年代順にしてみると、ここは三つに分けることができるようです。石井良助はこれを、第一期(表中1~5)・二期(6~21)・三期(22~26)に分けました。 まず「前右大将政所下文」という表記が続くのが、第一期(表中1~5)です。これは当時、頼朝の称号が前右近衛大将(前任の右近衛大将〔通称、右大将〕の意)であったことによります。 それでは第一期から第二期(表中6~21)に移りかわる原因は何なのでしょうか。これは、頼朝たちがきまぐれに書式を変更したわけではありません。第一期と二期の境目にあたる1192年6月~8月ごろに何があったか―それこそがまさに、頼朝の征夷大将軍就任なのです。 1192年7月12日、朝廷は、征夷大将軍に頼朝を任じる正式決定をします。その命令が鎌倉に届けられたのが、7月26日。そし

                                              1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府はなぜ定説ではなくなったのか? | THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]
                                            • 小野篁 - Wikipedia

                                              小野篁(『前賢故実』より) 小野 篁(おの の たかむら)は、平安時代初期の公卿、文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位、参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。 経歴[編集] 弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した[2]。 淳和朝初頭の天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身

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                                              • 歴史人物語り#87 六角氏異聞シナリオを作って遊んでみたい、対外的にも影響力が強かった六角氏正統の嫡流・六角義実、義秀、義郷 - ツクモガタリ

                                                戦国時代の六角氏といえば 楽市楽座の先駆者でもある六角定頼の系譜、 六角義賢・義治が有名ですが、 実は嫡流ではありません。 本来は六角定頼の兄である六角氏綱の系譜が嫡流です。 今回はその氏綱の子孫である 六角義実(ろっかくよしざね)、 六角義秀(ろっかくよしひで)、 六角義郷(ろっかくよしさと)。 信憑性は低いとは言われているんですけどね。 「麒麟がくる」には絶対出てこないでしょう(笑) www6.nhk.or.jp 1.六角氏異聞 六角氏の家督を継いでいたのは嫡流の義実・義秀説 1.1.六角義実(ろっかくよしざね)とは 1.2.六角義秀(ろっかくよしひで)とは 1.3.六角義郷(ろっかくよしさと)とは 1.4.六角氏の正統な嫡流の存在をちょっと信じたくなる話 2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの正統派六角氏 3.まとめ ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たちは 以下の一

                                                  歴史人物語り#87 六角氏異聞シナリオを作って遊んでみたい、対外的にも影響力が強かった六角氏正統の嫡流・六角義実、義秀、義郷 - ツクモガタリ
                                                • 天智天皇 - Wikipedia

                                                  天智天皇(てんじてんのう 626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。 諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。 また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。 生涯[編集] 大化の改新と即位[編集] 舒明天皇の第二皇子。母は

                                                    天智天皇 - Wikipedia
                                                  • 藤原道長 - Wikipedia

                                                    藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年(966年)- 万寿4年12月4日(1028年1月3日))は、平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の三帝の外祖父。 概要[編集] 関白・藤原兼家の息子に生まれるが、道隆・道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。 一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り

                                                      藤原道長 - Wikipedia
                                                    • 歴史書一覧 - Wikipedia

                                                      歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。 日本[ソースを編集] 倭・倭人関連の中国文献、倭・倭人関連の朝鮮文献も参照 飛鳥時代[ソースを編集] 『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』(聖徳太子・蘇我馬子) 『帝紀』 『旧辞』 『上宮記』 奈良時代[ソースを編集] 『粟鹿大神元記』 『古事記』(太安万侶・稗田阿礼) 六国史 『日本書紀』(舎人親王・藤原不比等) 『続日本紀』(藤原継縄・菅野真道・淡海三船) 『日本後紀』(藤原緒嗣) 『続日本後紀』(藤原良房) 『日本文徳天皇実録』(藤原基経) 『日本三代実録』(藤原時平) 『伊吉博徳書』(伊吉連博徳) 『高橋氏文』 『藤氏家伝』 『因幡国伊福部

                                                      • 上杉景勝 - Wikipedia

                                                        上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた[注釈 2]。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石(「上杉家記」では120万1,200石余、上方の在京領は除く)を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は石田三成ら西軍に付き敗北した。戦後に、徳川家康から上杉家の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。 生涯[編集] 出生と若年期[編集] 実父母の長尾政景と仙洞院 戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図 弘治元年(1555年)11月2

                                                          上杉景勝 - Wikipedia
                                                        • 藤原定家 - Wikipedia

                                                          藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。 概要[編集] 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。 2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の

                                                            藤原定家 - Wikipedia
                                                          • 神々の系譜

                                                            三輪王権  もどる (記紀の考古学、森浩一著 朝日文庫、2005年より) ミマキイリ彦の物語は、奈良盆地南東の三輪山を仰ぎ見る磯城の地域(のちの城上・式上と城下・式下)を中心に展開する。『紀』では、ミマキイリ彦の都は磯城にあって瑞籬宮、『記』には師木水垣宮とある。水垣を水をたたえた囲郭と解釈すると、弥生時代の大集落にともなう環濠ではないかという見方も生まれるが、三輪山の山麓ではまだ該当しそうな環濠集落の遺跡は見つかっていない。この例にかぎらず、居住地遺跡と記紀などの史料との対応は、古墳にくらべると全般に進んでいない。これも本書で取りあげるヲホド王(継体大王)にしても、葬られた藍野陵については、特定の古墳.(今城塚)に候補地がしぼられているのにたいして、居住地としての樟葉宮、筒城宮、弟国宮などは、まだ考古学的な遺跡としての候補が浮かんでいない。古墳時代後期の実在に疑問のない大王についても、こ

                                                            • 日本文学関係テキストファイル等

                                                              [あ][い][う][え][お][か][き][く][け][こ][さ][し][す][せ][そ] [た][ち][つ][て][と][な][に][ぬ][ね][の][は][ひ][ふ][へ][ほ] [ま][み][む][め][も][や][ゆ][よ][ら][り][る][れ][ろ][わ] [C][F][K][L][M][P][T] 【あ】 ああ金の世(添田唖蝉坊) http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/library.html(アナキズム図書室) あ、秋(太宰治) http://www.aozora.gr.jp/sakuhin.html(青空文庫) 「CD-ROM版 太宰治全作品集1」(マイクロテクノロジー) 嗚呼増税!(幸徳秋水) http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/library.html(アナキズム図書室)

                                                              • 足利直義 - Wikipedia

                                                                足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将・公卿・政治家・歌人。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男[2]。兄に足利高義と足利尊氏がいる。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬。 元弘の乱で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政では兄と同様、後醍醐から多大な恩賞を受け、後醍醐皇子の成良親王を奉戴して鎌倉将軍府の事実上の長を務めた。中先代の乱では北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、後醍醐皇子で前征夷大将軍の護良親王を殺害した。建武の乱の湊川の戦いでは足利方陸軍の主将を務め、陸軍副将の高師泰と共に建武政権軍の名将楠木正成を討ち取る武功をあげた。 室町幕府草創期においては、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登った。卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝の光厳上皇との関係

                                                                  足利直義 - Wikipedia
                                                                • 室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく : ネトウヨにゅーす。

                                                                  2015年01月03日00:32 TOP > 趣味:歴史、文化 > 戦国時代 > 室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく コメント( 29 ) 1: 名無しさん@おーぷん 2015/01/02(金)14:18:45 ID:E25 調べ物のついでに書き留めたメモみたいなものゆえ適当な感じですまん 間違いがれば修正宜しく 引用元: ・室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく ←1日1クリックで多くの人に記事が広まります 2: 名無しさん@おーぷん 2015/01/02(金)14:19:13 ID:2M8 期待するやで 3: 初代 足利尊氏 享年54歳 2015/01/02(金)14:19:21 ID:E25 御存知室町幕府を創立した英傑だが晩年は南北朝のドロ沼抗争や弟・息子との骨肉の争いなどグダんグダん状態に陥る。死因について「公卿補任」「太平記」には「癰瘡」、「愚管記」には「腫物」とあ

                                                                    室町幕府の歴代将軍15人の死因を書いていく : ネトウヨにゅーす。
                                                                  • 平治の乱 - Wikipedia

                                                                    12月9日 北面武士 不明 12月26日 天皇親政派3000騎以上 (平重盛1000騎、平頼盛1000騎、平経盛1000騎、六波羅残存軍 不明) (学習院本『平治物語』[注釈 2]) 2月20日 惟方・経宗捕縛の武士 不明 12月9日 三条殿襲撃軍 500騎 (学習院本『平治物語』) 12月26日 藤原信頼軍 約800騎 (藤原信頼300騎、源義朝200騎弱、源光保300騎) (学習院本『平治物語』) 2月20日 藤原惟方・藤原経宗 0 平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。 文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。 背景[編集] 信西の執政[編集] 保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。

                                                                      平治の乱 - Wikipedia
                                                                    • 図書館司書のための歴史史料探索ガイド

                                                                      1 図書館司書のための歴史史料探索ガイド 土屋 直之 (山形大学小白川図書館) 1.木々に囲まれた山城 2009 年、大河ドラマ『天地人』の舞台となったわが地元・山形県ではさまざまなイベン トが開催され、「大河効果」で大いに盛り上がった。ドラマそのものも、細部に不満がない わけではないが、なかなか面白かった。 しかし、ドラマはあくまでもフィクション。見ていると首をかしげたくなるところも所々 でてくる。一例を挙げてみよう。 上杉氏の家臣・直江兼続の話なので、その本拠地・春日山城が登場する。おりしも上杉謙 信が病に倒れ、後継ぎと目されていた二人の養子・景勝、景虎が主導権を巡ってあい争う「御 館(おたて)の乱」の回である。二人の間に緊張が高まり、春日山城は戦場になろうとして いた。見ていると、ドラマの中の春日山城は鬱蒼とした木々に囲まれて、その中に建物が点 在するようなロケーションとして描かれ

                                                                      • 常盤御前 - Wikipedia

                                                                        常盤御前(歌川国芳) 常盤御前(歌川国芳) 常盤御前と子どもたち(歌川国貞) 常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成と一女をもうける。字は常葉とも[注釈 1]。 生涯[編集] 『平家物語』等の軍記物語や『尊卑分脈』によれば、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。両親については素性が不明[1]。 源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子[注釈 2](生誕時期不明)を産んだ。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。

                                                                          常盤御前 - Wikipedia
                                                                        • 藤原実資 - Wikipedia

                                                                          藤原 実資(ふじわら の さねすけ)は、平安時代の公卿。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の四男。 藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている[1]。 経歴[編集] 祖父・実頼の養子となり、非常に愛されて家領の多くを相続し、小野宮流を継承した。 小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの九条流に摂関家の主導権を奪われたが、九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。また学問のみならず、蹴鞠の達人としても知られ、長徳3年(997年)4月17日には、賀茂祭の余興として自邸で

                                                                            藤原実資 - Wikipedia
                                                                          • 天下統一期年譜 目次・参考文献一覧

                                                                            〈はじめに〉 ・この年譜は、群雄割拠の戦国時代にあって上洛し中央政治権力樹立に着手した織田信長の誕生(1534:天文3)から、 その遺志を継承・発展させ、軌道修正や新たな構想を創出した上で国内統一を実現した豊臣秀吉の没年(1598:慶長3) までの政治動向を文書・古記録・編纂物を基にして時代順に記載したものです。 ・月日は、全て旧暦に拠っています。 ・〔  〕内は出典史料名(文書名、古記録名、編纂物名)を表現しています。 なお、出典史料名のないものは、原則として『別冊歴史読本 織田信長 ‐天下布武への道‐』および・ 『別冊歴史読本 豊臣秀吉 ‐天下統一への道‐』(ともに新人物往来社・1989年刊)に掲載の略年表に基づいています。 ・人名は原則として「諱」(いみな:実名のこと)で表記し、官途・法号また文書発給時の署名や古記録等に記載された名称は 必要に応じて人名の後に(「~」)で補しています

                                                                            • 室町幕府 - Wikipedia

                                                                              室町幕府(むろまちばくふ)は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府(あしかがばくふ)ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。 成立時期[編集] 初代将軍足利尊氏 延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。後醍醐天皇は比叡山に退去したが、正成とともに「三木一草」と称された後醍醐の武将ら(結城親光・名和長年・千種忠顕)もこの前後に相次いで戦死したため、苦境に立たされることとなった。 翌月、入京した尊氏は光厳上皇を治天の君に擁立し、8月には光厳の弟豊

                                                                                室町幕府 - Wikipedia
                                                                              • 百済王氏 - Wikipedia

                                                                                百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、百済最後の王である義慈王の子である善光[注釈 2]を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王を指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられている。 概説[編集] 氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が[2]、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済王族の出身の氏を指す。また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で、百済王仁貞らが後見者然と名を連ねている[3]ことより、百済系渡来氏族の宗家的地位にあったと考えられる。 百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[注釈 3]、この地に百済王の祀廟と百済寺[注釈 4]を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。 歴史[編集] 正史の『

                                                                                  百済王氏 - Wikipedia
                                                                                • 藤原不比等 - Wikipedia

                                                                                  藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。諡号は淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。正史以外で文忠公を記す史料もある。 草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。 藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤と記されている(#天智天皇の皇胤説)。名を史(ふひと)と記す文献もある(#姓名について)。 生涯[編集] 中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳の時、父・鎌足が死去。鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで14歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に

                                                                                    藤原不比等 - Wikipedia