天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)[1]は、天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて奈良時代の日本で発生した疫病(天然痘)の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25 – 35パーセントにあたる、100万 – 150万人が感染により死亡したとされている[1]。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。 背景[編集] 日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた[2]