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小浜藩の検索結果1 - 7 件 / 7件

  • なぜ若狭地方は滋賀県だったのか – 別冊びびび

    若狭地方が滋賀県だった時期 滋賀県庁に何度か行ったことがある。お役所の常として、本館に新館にそのまた新館に、といくつかの建物に分かれているのだが、そのうちの「新館」の入口には、滋賀県が福井県南部――嶺南地方を編入していたときの地図がでかでかと掲示されていた。滋賀県の歴史を伝える貴重な資料ということのようなのだが、どうにも心がざわついてしまう。言うなれば首相官邸の入口に、朝鮮半島や台湾を占領していた時代の地図を掲示しているようなもので、福井の人間が怒らないだろうか、と心配になってしまう。 嶺南というのは、文字通り山嶺の南側という意味で、具体的には敦賀市と南越前町とを隔てる木ノ芽峠の南側である。令国制でいう若狭国――現在でいう小浜市、三方郡、大飯郡、三方上中郡はすっぽりこの嶺南に収まるが、同じく嶺南である敦賀市は越前国となるため、嶺南すなわち若狭というのは正確ではない。ちなみに、残る木ノ芽峠の

      なぜ若狭地方は滋賀県だったのか – 別冊びびび
    • 大正時代のキラキラネーム「麿女鬼久壽老八重千代子」さんは実在したのか?

      1929(昭和4)年に刊行された『姓名の研究』という本に載っている、大正時代の「キラキラネーム」が面白いので紹介します。 ※本文中の引用画像は、出典を記してないものはすべて荒木良造『姓名の研究』昭和4年復刻版です、文中での敬称は略します。 奇抜な名前をつける人は昔からいた アクロバティックな漢字の読み方をさせるような、いわゆる「キラキラネーム」を子供につけるひとがふえているといわれています。こういった「奇抜な名前」をつけるひとは昔から一定数いました。 明治大正時代から昭和時代のそういった「珍名」さんをやたらと集めてまとめた本があります。荒木良造著の『姓名の研究』という本です。 荒木良造『姓名の研究』 著者の荒木良造氏は、彼の他の著書『名乗辞典』の略歴によると、1910(明治43)年、東京帝国大学国文科を卒業後、文部省国語調査委員会嘱託、1918(大正7)年〜1942(昭和17)年まで同志社

        大正時代のキラキラネーム「麿女鬼久壽老八重千代子」さんは実在したのか?
      • 橋本左内の[写真]は本当に存在する?

        『橋本左内の書籍にはどんなものがあるの?』では、高校の日本史の授業では、一橋派(ひとつばしは)の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の側近であったこと、適塾(てきじゅく)の塾生だった・梅田雲浜(うめだうんびん)(小浜藩)横井小楠(よこいしょうなん)(熊本藩)らや藤田東湖(ふじたとうこ)(水戸藩)・西郷隆盛(さいごうたかもり)(薩摩藩)交流していたこと、25歳で安政の大獄(あんせいのたいごく)により斬首されたことについて取り上げられ、ほとんどの人は耳にしたと思います。 橋本左内について日本史の教科書の脚注(きゃくちゅう)に載っている程度であることを紹介しましたが、左内の書籍『啓発録(けいはつろく)』については高校の教科書でほとんど取り上げられることがありませんでした。書籍だけでなく左内の写真も教科書に載っていないため、知る機会がないと思われます。ここでは、橋本左内の写真が存在するのかどうか、橋本

          橋本左内の[写真]は本当に存在する?
        • 呼び方ひとつで変わる地図の顔 「近畿地方の地域別人口マップ」が反響 | おたくま経済新聞

          「近畿地方できました!(地域別人口)播磨は1つの県に匹敵する規模がある」というつぶやきとともに、自作の地図を公開した紀つねさん。そこには、「紀伊半島と若狭湾の連続性を考慮して」と、福井県嶺南地方と三重県を加えた近畿地方の地図。 一見するとなんてことないものですが、よくよく見ると大阪府は「摂津」「河内」「和泉」、和歌山県にいたっては、「紀北」「紀中」「紀南」という表記。さらに、面積と人口らしき数値も記されています。実はこれ、それぞれの府県を地域で区分けしたもの。 福井県南部にあたる「嶺南(れいなん)」地域は、江戸時代に旧小浜藩だったところで、「北国街道」とも呼ばれた北陸道の難所、木ノ芽峠(木嶺)の南側に位置することが名前の由来。今回の地図では範囲外となりますが、福井市などがある地域は「嶺北」となります。 滋賀県の場合は真ん中にある琵琶湖を基準に、東西南北のどこに当たるかが地域名となっています

            呼び方ひとつで変わる地図の顔 「近畿地方の地域別人口マップ」が反響 | おたくま経済新聞
          • 若狭鯖街道【熊川宿】歴史とリアルな現代の暮らしが共存している素晴らしさ - うめじろうのええじゃないか!

            こんばんわー 昨日はJR京都線・・夕方から止ってましたね・・・(-_-;) せっかく早く帰れる日だったのに・・おかげさまで結局いつもより帰宅が遅くなりました・・・(-"-) さて、 まだ暑かった頃、鯖街道は【熊川宿】を散策した時の記録です(^^) 道の駅に「鯖街道ミュージアム」がありましてね、これがまた小ぶりながらも見応えがあり、しかも無料という嬉しい施設なのであります(^^) 鯖街道の歴史がマンガで紹介されているのでとても親しみやすく分かり易い(^^) いやー、面白いですねー(^^) こういうの大好きですので、ずっと居られます。笑 おっ・・!出町柳の「出町橋」、「鯖街道口」も描かれてる! こういうちょっとした所に、自身の街歩きがリンクするとえもいわれぬ感動を覚えるんですよねー(^^)私だけ??笑 【鯖街道】とはご周知、若狭から京の都へ魚介類を運んだ街道ですが、その主たる海産物が鯖であった

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            • 【現在1878城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧 - 攻城団ブログ

              攻城団のサイトでは砦などをお城としてカウントしていませんが、ここでの「○○城」のカウントは原則として御城印販売元の記載や告知内容に基づき集計しています。 いますぐアクセス! 最近はお城で御朱印のようなものが販売されているのをご覧になった方も多いのではないでしょうか。 これは「御城印(ごじょういん)」といって、スタンプに代わる登城証明(兼おみやげ)として集める人が増えています。最近のお寺や神社でいただく「御朱印」ブームに乗っかったとも思われがちですが、じつはもっとも古いとされる松本城では1991年(平成3年)頃から販売しており、意外と歴史があるんです。 御城印の数は2018年以降、一気に増えており、現在は60城前後のお城で販売されていることを確認しています。 このたび攻城団では全国の御城印を配布(販売)しているお城についての調査をおこないましたので、以下にまとめます。 御城印とはお城版の御朱

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              • 東京で見つける意外な「江戸遺産」 あの石垣は大名屋敷の跡だった|じんぶん堂

                記事:平凡社 江戸城西の丸から遠望した富士見櫓(写真/香原斗志) 書籍情報はこちら 意外に見つかる石垣 大名屋敷の敷地内には、政庁であり藩主や家族の居住空間でもあった御殿を中心に、数多くの建物が配置されていた。だが、そのほとんどは、江戸を占拠していたとは信じがたいほどに失われてしまった。しかし、痕跡なら意外と残っている。たとえばそれは、大名屋敷の周囲にめぐらされ、塀や勤番長屋とよばれた藩士たちの住居の土台になっていた石垣で、見すごされがちな場所に見つかる。 福岡藩黒田家の上屋敷は、通りをはさんで向かい合っていた広島藩浅野家上屋敷(現在の国土交通省など)とともに江戸の名所のひとつで、歌川広重の浮世絵にも登場する。明治維新後は外務省の敷地になり、御殿が外務省の初代庁舎になったが、明治十(一八七七)年に焼失してしまった。この御殿の棟を飾っていた巨大な鬼瓦が、東京国立博物館の敷地内に移設されて残っ

                  東京で見つける意外な「江戸遺産」 あの石垣は大名屋敷の跡だった|じんぶん堂
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