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府内城の検索結果1 - 7 件 / 7件

  • 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

    天正14年(1586年)から翌年にかけて、九州の情勢は大きく動く。島津氏は大友氏領内へ侵攻。大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)の制圧を目指した。この争いに豊臣秀吉が介入。大友氏の救援要請を受けて、大軍を九州に送り込んでくる。 この一連の攻防は「豊薩合戦」とも呼ばれている。その様子はイエズス会宣教師のルイス・フロイスがまとめた『日本史』に詳しい。もちろんすべてが正確とは言えないところもあるが、同時代を生きた人物が記した貴重な史料である。 完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3) (中公文庫) 作者:ルイス フロイス 中央公論新社 Amazon こちらの『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』 (訳/松田毅一・川崎桃太)から情報を拾ってみる。 大友側からの視点で 宣教師が伝える島津の実力 島津と大友と、そして豊臣秀吉と 戸次川の戦い 豊

      島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
    • 【現在1875城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧 - 攻城団ブログ

      攻城団のサイトでは砦などをお城としてカウントしていませんが、ここでの「○○城」のカウントは原則として御城印販売元の記載や告知内容に基づき集計しています。 いますぐアクセス! 最近はお城で御朱印のようなものが販売されているのをご覧になった方も多いのではないでしょうか。 これは「御城印(ごじょういん)」といって、スタンプに代わる登城証明(兼おみやげ)として集める人が増えています。最近のお寺や神社でいただく「御朱印」ブームに乗っかったとも思われがちですが、じつはもっとも古いとされる松本城では1991年(平成3年)頃から販売しており、意外と歴史があるんです。 御城印の数は2018年以降、一気に増えており、現在は60城前後のお城で販売されていることを確認しています。 このたび攻城団では全国の御城印を配布(販売)しているお城についての調査をおこないましたので、以下にまとめます。 御城印とはお城版の御朱

        【現在1875城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧 - 攻城団ブログ
      • フェリーさんふらわあ弾丸大分旅 - 自由悠遊

        一昨年の冬、往復船中泊(大部屋に雑魚寝)・現地宿泊なし・旅費1万円ポッキリという格安で、関西からまさかの弾丸0泊3日大分旅行をした。 夜に神戸を出港~翌朝に大分に着港~日帰り観光~その日の夜に大分を出港~次の日の朝に神戸に帰港、というタイムスケジュール。 船内その1。 客室は5階から7階まであり、階段の所には冬らしいイルミネーションが☆キラリ 船内その2。 向かって右は売店、左は海の見える休憩スペース、突き当たりは食堂。 売店も各所に設置された自販機も、良心的な通常価格だった^^v ほかにもゲームコーナーやキッズルームやレディースルーム、海の見える展望浴場、トイレに設置されたシャワールームなど、設備は充実しており、各客室は布団・枕完備。 船内その3。 左上のモニターにリアルタイムで現在地が表示される。 瀬戸大橋の夜景、四国に向かって撮影。 この写真撮るためにデッキに出たら、冬の深夜の潮風が

          フェリーさんふらわあ弾丸大分旅 - 自由悠遊
        • 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

          島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降したのちに薩摩国を制圧。そのあと、大隅国と日向国も制した。この快進撃の一翼を、島津家久は担った。 戦国時代末期の九州は島津氏・大友(おおとも)氏・龍造寺(りゅうぞうじ)氏が三分する。やがて島津一強の様相と

            島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
          • フランシスコ・ザビエルを描く - どーなんの定年後のチャレンジ

            高校時代の同級生からの依頼 彼は大分県日出町(ひじまち)で毎年行われる ザビエルの道ウォーキング大会の会長さんをしているのです hijinavi.com 大分県は豊後の国と言って 戦国時代は大名大友宗麟が一時期は 九州北半分に領地を広げていました 大分もその頃は南蛮船が別府湾に入港して 大友宗麟もキリスト教の洗礼を受けるほど 南蛮文化が浸透していました そして山口に来ていた フランシスコ・ザビエルさんは 周防灘を渡り国東半島に上陸 この半島の南端日出を通って 今は無き別府湾の瓜生島を南下 南蛮船の着く港沖の浜を通り 府内(現大分市)の府内城に着いたようです その通過地点である日出をザビエルさんが歩いたであろう ザビエルの道を歩くウォーキング大会があるのです このザビエルの道ウォーキング大会のポスターをデザインして欲しい との事で やはりザビエルさんの肖像を入れたいなぁ・・・って検索すると

              フランシスコ・ザビエルを描く - どーなんの定年後のチャレンジ
            • 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。

              島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。 島津と大友の微妙な関係 天正14年の九州の勢力図 島津の両殿体制、そして日向の末弟 島津と毛利 豊臣秀吉の惣無事令 戦を急ぎたい島津家臣団 豊後攻めが決まるが…… 筑前へ出陣 勝尾城の戦い 岩屋城の戦い 立花山城は落ちず 豊薩合戦 豊後南郡の戦い、落ちない岡城 島津家久の進軍 鶴賀城の戦い 戸次川の戦い 府内を陥落させる 将軍からの手紙 島津軍の撤退 根白坂の戦い 島津義久の降伏 それぞれの降伏 島

                豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。
              • 日本100名城「大分府内城」 - オババのトラベルジャーナル

                9月に入りましたね。 まだまだ残暑が続くと言われていますが、酷暑の中にも、そろそろ次の季節に移ろうとしているような気配が、空や空気に感じられます。 8月初旬の別府旅行の最後の記事になります。 別府から帰路につく前に、大分市街の中心部にある「大分府内城跡」に立ち寄りました。 「大分府内城」は、1597年、石田三成の妹の夫にあたる福原直高によって、秀吉の命で築城されました。 その時は、望楼型の三重の天守が築かれたそうです。 関ヶ原の戦いの後、竹中重利によって、天守を四重の層塔型にするなどの大改修が行われ、現在の形になったそうです。 その後何人か城主が入れ替わりましたが、1658年から廃藩置県までの200年間、(大給)松平家が支配したようです。 府内城の玄関口である「多聞櫓門(大手門)」。 空襲で消失し、昭和41年に復元されたものだそう。 現在、府内城址は長期間にわたる整備中のようで、 敷地内に

                  日本100名城「大分府内城」 - オババのトラベルジャーナル
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