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廃太子の検索結果1 - 9 件 / 9件

  • 『中国ドラマ【ミーユエ】を観ていると、いつの時代、どこの国も力任せの馬鹿が権力を握るとろくでもないことになるな』と思ったこと。。。 - 異星人と交信した結果、撃沈。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    中国ドラマ【ミーユエ】 視聴3回目なのと、中国史はある程度理解しているので、 どうなるか分かっているのに、 観るたびに腹立てて悲しんで忙しいです(汗) 【ミーユエ 第59話】、本当に腹立たしい。 恵文王が生きていた時、 素行の悪い嫡子を太子(王の座を継ぐ人)に就けたのですが、 あまりの横暴ぶりに、嬴蕩(えいとう)を太子から 廃しようとする声が多かったにもかかわらず、 自分の立場を守るためにそれを阻止した輩がいて、 結局、暴力自慢の嬴蕩が恵文王の死後、王座を継いだのですが、 あまりの傍若無人ぶりに観ていて腹立つ!!!! こやつ、自分の腕力に自信があり、 周に行き、鼎(かなえ)を持ち上げようとして、 その鼎に押しつぶされて死ぬのです。 ※鼎(かなえ)は、三本足の鉄のかまのことです。 青銅器 これ↓↓↓↓↓↓↓↓ この鼎(かなえ)、相当重いらしいのですが、 これに踏みつぶされて死んだなんて、 ざ

      『中国ドラマ【ミーユエ】を観ていると、いつの時代、どこの国も力任せの馬鹿が権力を握るとろくでもないことになるな』と思ったこと。。。 - 異星人と交信した結果、撃沈。。。。。。。。。。。。。。。。。。
    • 浅田次郎「珍妃の井戸」誰が珍妃を殺したか?歴史の封印を解く

      こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、浅田次郎さんの名作、「珍妃の井戸」をとり上げます。 ■あらすじ 列強諸国に蹂躙され荒廃した清朝末期の北京…。 その混乱のさなか、紫禁城の奥深くで、ひとりの妃が命を落としました。 それも、小さく深い井戸の底に、頭から投げ込まれて…。 その妃の名は珍妃。皇帝の寵愛を一身に受けた、若く美しい妃でした。 珍妃はなぜ、誰に殺されたのか…。 事件を知った英独露日の高官は、中国の近代国家への扉を開くために、真相の究明に乗り出します。 事件の鍵を握る人物たちへの聞き取りを進める4人。そして最後にある人物のところに向かいます。 果たして、珍妃を殺したのは誰か。あまりに切ない事件の真相とは…。 ■珍妃の井戸 「珍妃の井戸」。 浅田次郎さんの描く中国の清朝末期を描く歴史ミステリー小説。名作「蒼穹の昴」の続編です。 珍妃の井戸 「歴史ミステリー

        浅田次郎「珍妃の井戸」誰が珍妃を殺したか?歴史の封印を解く
      • 八王の乱とは (ハチオウノランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

        八王の乱単語 3件 ハチオウノラン 8.7千文字の記事 19 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 簡単な概要八王の紹介詳細年表どうしてこうなったか題材にした作品関連商品関連項目掲示板八王の乱とは、中華を平定し三国時代を終結に導いた晋王朝(西晋)が崩壊するきっかけとなった内乱である。 簡単な概要 290年、三国時代を統一した皇帝司馬炎(武帝)が崩御し、跡を長男の司馬衷(恵帝)が継ぐ。継いだ時点で衷は32歳と幼くはなく、本来ならば政治家として脂が乗ってくるような年齢だったのだが、衷は意志薄弱で暗愚な人物であり、権臣や妻賈南風らに政務の実権を奪われていき、皇帝の権威は失墜していった。 そんな中で宮中闘争は公然と司馬一門の諸王の中から簒奪を企てるものすら現れ、武力でもって気に入らぬ人物を捕えて粛清を行うという泥沼の状況へと突入していき、晋の統治能力の低下は領内に移住していた南匈奴や氐など異民族の独

          八王の乱とは (ハチオウノランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
        • 『セイバーマリオネット』あかほりさとる、『ロードス島戦記』水野良 レジェンドラノベ作家にぶっちゃけ話(真剣)をしてもらった! 「ファンタジーは書いたらダメ」「(初版7万部でも)売れないからやめましょう」と言われた時代

          ラノベ文体の始祖は、まさかの……──あかほり先生はデビュー前からロードスをお読みでしたが、水野先生はあかほり先生の作品を読んでいらしたんですか? 水野: 一応、どんなもんかとチェックはしていましたよ。で、読んで「すごいなー」と。 あかほり: 15分で読めるって有名だったからね。 ──そう! それも発明だなって思うんですよ。読みやすいからこそ低年齢層にまで届いた。1冊通して本が読めるって、子供にとってすごく大きな自信になるので。 水野: あれはスタイルだよね。 ──最初の読書体験があかほり作品だった人って、多かったですもん。あの文体はやはり発明で、それがあったからこそラノベがここまで流行したんだと思います。 あかほり: けどね? 当時、白鳥君たちが書いてるみたいな作品ばかりだったら、俺はそもそもラノベを書いてなかったと思うんだ。きっと本を書こうなんて思わなかった。今はそれくらいしっかりした作

            『セイバーマリオネット』あかほりさとる、『ロードス島戦記』水野良 レジェンドラノベ作家にぶっちゃけ話(真剣)をしてもらった! 「ファンタジーは書いたらダメ」「(初版7万部でも)売れないからやめましょう」と言われた時代
          • 『中国ドラマ【ミーユエ】を観ていると、いつの時代、どこの国も力任せの馬鹿が権力を握るとろくでもないことになるな』と思ったこと。。。 - 異星人と交信した結果、撃沈。。。。。。。。。。。。。。。。。。

            中国ドラマ【ミーユエ】 視聴3回目なのと、中国史はある程度理解しているので、 どうなるか分かっているのに、 観るたびに腹立てて悲しんで忙しいです(汗) 【ミーユエ 第59話】、本当に腹立たしい。 恵文王が生きていた時、 素行の悪い嫡子を太子(王の座を継ぐ人)に就けたのですが、 あまりの横暴ぶりに、嬴蕩(えいとう)を太子から 廃しようとする声が多かったにもかかわらず、 自分の立場を守るためにそれを阻止した輩がいて、 結局、暴力自慢の嬴蕩が恵文王の死後、王座を継いだのですが、 あまりの傍若無人ぶりに観ていて腹立つ!!!! こやつ、自分の腕力に自信があり、 周に行き、鼎(かなえ)を持ち上げようとして、 その鼎に押しつぶされて死ぬのです。 ※鼎(かなえ)は、三本足の鉄のかまのことです。 青銅器 これ↓↓↓↓↓↓↓↓ この鼎(かなえ)、相当重いらしいのですが、 これに踏みつぶされて死んだなんて、 ざ

              『中国ドラマ【ミーユエ】を観ていると、いつの時代、どこの国も力任せの馬鹿が権力を握るとろくでもないことになるな』と思ったこと。。。 - 異星人と交信した結果、撃沈。。。。。。。。。。。。。。。。。。
            • 平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして - こうへいブログ 京都案内と文章研究について

              山の背後へ 延暦3(784)年、桓武天皇は平城京を棄てさり、長岡京への遷都を行いました。 ですがその長岡京も僅か10年という短命に終わり、さらに平安京へと遷ることになります。 平安京は現在の京都市内であり、長岡京は現在の京都府の向日市・長岡京市にあたります。 位置関係でいうと、平安京の正門・羅城門があった九条通りから長岡京市内までは、車だと移動時間30分、わずか20キロほどの距離です。 この長岡京、平安京の遷都は一括して「山背」遷都と呼ばれています。 「山背」(やましろ)とは、平城京から見た奈良山の北側の国、そう、山の背後にあたる国ということです。 のちに平安京に遷都されるときに「山背」は「山城」に改められるのですが、山の背後に政治的拠点が移された理由として、桓武天皇のある思惑がありました。 それはどういうことかと言うと、桓武天皇は古い因習を断ち切りたかった、つまり、平城京の影響が全く残ら

                平安京の誕生  それは革命のとき 長岡京をあとにして - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
              • 二見城跡~名君にして暴君、五條に遺る松倉重政の事跡を巡る - 大和徒然草子

                皆さんこんにちは。 松倉重政という武将をご存知でしょうか。 安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、一般には肥前島原で苛烈なキリシタン弾圧と圧政を敷いて、江戸時代最大の反乱である島原の乱の原因を作った人物として知られています。 歴史小説の大家である司馬遼太郎にも「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。」(街道をゆく17島原・天草諸道)と言わしめた、日本史上最悪の暴君の一人というのが、重政の一般的な評価でしょう。 しかし、この重政を名君と慕う町があります。 その町とは、重要伝統的建造物群保存地区として知られる奈良県五條市の五條新町で、重政は町の礎を築き、善政を敷いた名君として現在も顕彰されています。 多くの伝統建築が建ち並ぶ五條新町の町は、散策スポットとしても非常に人気のあるエリアですが、今回は松倉重政の事跡と、彼が築城した二見城跡を中心にご紹介します。 松倉重政

                  二見城跡~名君にして暴君、五條に遺る松倉重政の事跡を巡る - 大和徒然草子
                • 【立皇嗣の礼】廃太子や戦乱によるイレギュラーな即位も 日本史彩る「立太子」めぐるドラマ(1/2ページ)

                  「立皇嗣宣明の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下と、皇后さま、秋篠宮ご夫妻=8日午前11時5分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 8日午前、「立皇嗣宣明(りっこうしせんめい)の儀」が挙行され、秋篠宮さまが皇位継承順位1位の「皇嗣」となられたことが内外に示された。宣明の儀を中心儀式とする立皇嗣の礼は平成3年の「立太子の礼」を踏襲。近世以前、何度も行われた同様の儀式は天皇の後継指名の場だったとされるが、歴史をひもとくと、順当に皇太子を経た天皇ばかりではない。古代には一度立てた皇太子を廃する例が相次いだほか、後継指名できる上皇や天皇が戦乱で不在となり、異例の即位となった例も。日本史に伝わる立太子をめぐるドラマを追った。(橋本昌宗) ■「廃太子」相次いだ古代 現代の日本では、天皇の長男が皇太子となるなど、皇位継承順位は明確に定められている。 しかし、明治22(1889)年に皇室典範が制定されるまで、

                    【立皇嗣の礼】廃太子や戦乱によるイレギュラーな即位も 日本史彩る「立太子」めぐるドラマ(1/2ページ)
                  • 日本最大級の怨霊・崇徳院が「まったく特異である」その決定的な違いとは | 文春オンライン

                    古来、この国は疫病の流行や天変地異に幾度となく見舞われた。さまざまな「災厄」は人間の側では制御しえない。人びとはそうした災いを、荒々しい怨霊が引き起こす「祟り」と考えたのである。 怨霊や「祟り神」の気持ちを鎮めるためには、特別なことがおこなわれた。また残された人びとが伝える「物語」が必要であった。 日本史上最大級の怨霊、崇徳院をめぐる物語から見える、日本人の心の奥に潜むものとは――。(全2回の1回目/#2へ) ※本稿は、小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。 ◆◆◆ 香川県坂出市郊外の白峰山中にある真言宗の古刹・白峯寺は、四国88ヶ所第81番札所として遍路の巡礼者たちがひきもきらずに訪れる。 しかしこの寺は、お遍路さんばかりでなく、「人を神として祀る習俗」に関心のある者にとっても、見過ごせないところである。というのは、ここには保元の乱(1156年)に

                      日本最大級の怨霊・崇徳院が「まったく特異である」その決定的な違いとは | 文春オンライン
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