『やがて秋茄子へと到る』の批評しにくさ 短歌のなかには、批評することに困難を感じるものがある。堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(以下では『秋茄子』と略して書く)は、少なくとも私にとっては、そういうタイプの歌集だ。 東郷雄二は、『秋茄子』がよく読まれているわりにあまり批評されていないことに触れ、「それは堂園の短歌の批評のしにくさに原因がある」という(東郷、2013)。この文章の言い方によれば、堂園の短歌は「従来の伝統的な短歌の読みのコードを拒否する」ものである。 球速の遅さを笑い合うだけのキャッチボールが日暮れを開く (一〇二) 東郷は、たとえばこの一首をあげながら、「結句の『日暮れを開く』という措辞にやや詩的修辞が感じられるだけで、どこに読みのポイントがあるのかわからない」という指摘をする。ここで言われようとしているのは、つまり、「従来の伝統的な短歌」(たとえば「近代短歌の文脈内で作られた