tomonishintakuのブックマーク (135)

  • 飽きるとは何か(子供の感性を失った大人の飽きについて)

    「悪いな。もう、おまえには飽きたんだ」 昔の安いドラマにあるお決まりのセリフである。そして女はすがりつき、なぜ? どうして? と泣くことになっているが、そう言われても飽きたものは飽きたとしか言いようがない。 とにもかくにも人は飽きる。洋服や音楽は言わずもがな、仕事住宅、時には人生そのものにさえ飽きてしまう。ひょっとすると、世界の経済は原油価格なんかよりも、よほどこの〈飽き〉に振り回されているのかもしれない。すなわち、飽きたから捨てるのであり、飽きるから新しいものを求めるのである。 飽きると同様に、人は慣れる。あるいは戦争でさえ慣れることができるらしいが、しかし、この世に飽きないものもまたないのだろうか。34年ほど生きてきた私の率直な実感としては、飽きないものはない。お気に入りの服も毎日着れば飽きるし、好物とて毎べれば飽きるだろうし、いくら好きな人でも始終べったりしていれば飽きてしま

    飽きるとは何か(子供の感性を失った大人の飽きについて)
  • 本を読んでもわからない(読書と頭の良し悪しについて)

    まずは黙って以下をお読みいただきたい。 人間の盲目と悲惨とを見、沈黙している全宇宙をながめるとき、人間がなんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙のこの一隅にさまよっているかのように、だれが自分をそこにおいたか、何をしにそこへ来たか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのを見るとき、私は、眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、さめてみると〔自分がどこにいるのか〕わからず、そこからのがれ出る手段も知らない人のような、恐怖におそわれる。 【パンセ(中公文庫)パスカル著、前田陽一・由木康訳】P448 『人間は考える葦である』というあまりにも有名な言葉を残したパスカルの『パンセ』の中の一節である。なんて、仰々しく書き出してはみたものの、正直、私自身にもなんのことやらさっぱりわかってなどいない。 人間は考える葦だというくらいであれば、まあ、そういうものかもしれない

    本を読んでもわからない(読書と頭の良し悪しについて)
  • うたのおにいさんのラリルレロ(元NHK歌のお兄さんが覚せい剤で逮捕されて)

    おそらく、戦後日で生まれ育った子供で『おかあさんといっしょ』を知らない人はまずいないだろう。1959年10月5日に放送を開始したNHK教育テレビ番組で、その名の通り『母と子が一緒に楽しむエンターテイメント番組』である。 「おかあさんといっしょ」『フリー百科事典 ウィキペディア日語版』2016年4月17日 (日) 02:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org うたのおにいさん――その響きは、私を童心に返らせる。終始とびきりのスマイルで番組を進行する、うたのおにいさん。たとえ子供が泣き出しても、笑顔で手をつなぎ、なだめすかして抱きかかえ、テンション高くスタジオ内をぐるぐると走り回ってやっぱりニッコニコであった。 その、ぼくやわたしのうたのおにいさんが、覚せい剤で逮捕されたのである。 元NHKうたのおにいさん 覚醒剤所持の疑い 俳優の杉田光央容疑者逮捕 NH

    うたのおにいさんのラリルレロ(元NHK歌のお兄さんが覚せい剤で逮捕されて)
  • 桜が食えるか、犬を食う(ホームレスとフランダースの犬の主人公ネロの共通点と差異)

    桜が咲くと、人が群がる。肴に酒にと抱え込んで、宴が始まる。毎年のことであり、別に珍しくもない。春で暖かくなる時分でもあるし、そこへぱっと花が開けば心浮かれるのが人心である。 そのよく晴れた春の日も、公園にある桜の木の下でブルーシートを広げて数人の男女が小宴を開いていた。桜はまさに満開であった。腰を下ろして見上げれば、何はなくとも気持ちが華やぐことだろうーー。私はそう思いながら、ゆったりと歩いた。 はす向かいの小道に入る。と、ひとりのホームレスとおぼしき薄汚れた男が、カートにまとめた家財一式にもたれかかり、ぐったりと天を仰いでいた。別に珍しくもなく通り過ぎたが、しかし、なんとはなしに振り返った。浅黒いホームレスの男の背後に、透き通るピンクの桜の枝がのぞいていた。 男がほんの少し、道の反対側に2、3メートルも移動すれば、美しい桜がはっきりと望めることは明らかだった。しかし、男はそこに居を定めた

    桜が食えるか、犬を食う(ホームレスとフランダースの犬の主人公ネロの共通点と差異)
  • 言葉のすき間と画のすき間(小池真理子『無伴奏』の映画を見て、小説を読んでの感想)

    先日、小池真理子原作の『無伴奏』が映画化された。と言っても、原作の小説は読んだこともなく、そもそも知りもしなかった。たまたま予告編を目にして、映画館に足を運んだのである。 物語は、大学闘争のただ中にあった昭和を舞台とした、女子高生の響子と大学生の渉(わたる)との恋愛悲話である。雑な説明だと思われるかもしれないが、そういうわけでもない。 よく言われることだが、名作の条件のひとつに〈明快さ〉ということがある。ドストエフスキーの『罪と罰』であれば金貸しの婆を殺して悩んだ話だし、太宰治の『走れメロス』は友達を助けるために全力で走った話である。中島敦の『山月記』は名誉を追い求め過ぎたら虎になった話で、ついでに絵の『ちびくろさんぼ』は虎がバターになっちゃってホットケーキに塗ってべたらおいしかったという話である。 そうして『無伴奏』もまた然りなのである。昭和らしく全編セピア色という感じで、実際、画肌

    言葉のすき間と画のすき間(小池真理子『無伴奏』の映画を見て、小説を読んでの感想)
  • 迫害の居酒屋(閉鎖的コミュニティで成立する居酒屋に迷い込んだよそ者の話)

    に日人として生まれ育って、いわれのない疎外感を覚えることは稀である。少なくとも、白人社会における黒人のような、ナチス政権下のドイツにおけるユダヤ人のような壮絶な迫害は皆無と言っていい。 しかし、迫害の根は、あるところにはあるものである。それもまさか、お金を払う客として訪れる店でそのような目に遭おうとは、想像だにしなかった。 前々から気になっていた、もつ煮込み串が一50円、焼酎の水割りが250円というような場末の居酒屋に行ったのである。店はネットのクチコミでも評判がよく、確かにいつのぞいてみても満席でにぎわっていた。それがようやく空きに巡り合えたのであった。 店内は、パチンコ屋の印象に似ていた。それぞれが好き勝手にがなり立てるようにしゃべっていてかまびすしい。くわえて、煙草のけむりで薄くもやがかかってもいる。コの字型になったカウンターの中央に調理場があり、大きなもつ煮込みの鍋が鎮座し

    迫害の居酒屋(閉鎖的コミュニティで成立する居酒屋に迷い込んだよそ者の話)
  • WEBとリアルの身体感覚(ネットに翻弄されるデジタルネイティブ世代、あるいはバカッター)

    質問したい。あなたは大学の職員である。学生が不祥事を起こし、懲戒処分の掲示を依頼された。〈ホームページ〉または〈学内の掲示板〉、いずれかでいいということである。さて、あなたならどちらに掲示するだろうか。 私なら、まず間違いなくホームページを選ぶ。そのほうが断然楽だからである。しかし、ある種の人たちにとって、WEB・インターネットの敷居は想像以上であるらしい。現実の掲示板にはなんの抵抗もなく掲示を張り出せるのに、ネットとなると途端に二の足を踏むのだという。――とある大学のWEB管理者の談である。 その方は首をかしげて言った。「ネットで下手なことをすると、全世界に発信されてとんでもないことになると思ってるわけです。だけど、昨今のスマホの使い方からすると、リアルに掲示したものだって、学生がパシャッっと一発写真撮ってSNSに挙げれば全世界から見られてしまう。結局、同じことなんですよ」 ああ、なるほ

    WEBとリアルの身体感覚(ネットに翻弄されるデジタルネイティブ世代、あるいはバカッター)
  • 踏み絵としての、自薦ブログ9選(おすすめ記事一覧)その1

    新宅睦仁ブログ「むろん、どこにも行きたくない。」の自薦記事一覧です。表題にあるように、〈踏み絵として〉ご一読いただき、ブログがご自身に合うか合わないか、好きか嫌いか、価値があるかないか、ご判断いただく際のご参考にしていただければ幸いです。 ※時系列順 2016/04/13 満身創痍の五輪エンブレム(2020年東京オリンピックは誰のためか) 2016/03/25乙武洋匡/聖なるダルマ 2016/03/07残された理由 2015/12/18サラリーマンという人生 2014/08/19まま袖すり合う知的障害者たちに思う 2014/03/14カツ丼を喰らふ 2013/06/14一寸の虫にも五分の魂があったらいいね 2012/12/206億円+懲役7年くらい愛してる 2012/09/21きみは「ピカゴケ」を知っているか?(「原爆に夫を奪われて―広島の農婦たちの証言」を読んで)

    踏み絵としての、自薦ブログ9選(おすすめ記事一覧)その1
  • いたちごっことしてのKYと不謹慎(空気を読み、自粛することを強要される時代)

    の地震で、一夜にして世間の雰囲気が変わった気がする。東日大震災の時と同じものを、ひしひしと感じる。 おふざけや冗談は言わずもがな、愉快の片鱗を少しでも見せれば、たちまち不謹慎だと糾弾される。つい先ほども、ある芸能人が笑顔で撮った写真を画像投稿サイトにアップするや否や、まるでリンチのように不謹慎だと叩かれて、あっと言う間にその写真は削除されてしまった。 不謹慎とは、いったいなんなのだろうか。まずはその定義を明確にしないことには、話が始まらない。以下、Wikipediaより引用する。 不謹慎(ふきんしん)とは、慎みや考慮、思慮分別の欠如などを指して言う感情的形容詞(ただし不謹慎という語自体は形容動詞という品詞に属する[1])で、それを見る他者を不快にするような状態であると感じられる事象あるいは集団感情のこと。軽薄、不真面目、無神経などと同義。 「不謹慎」『フリー百科事典 ウィキペディア日

    いたちごっことしてのKYと不謹慎(空気を読み、自粛することを強要される時代)
  • 天災といつか(「平成28年熊本地震」熊本で震度7、余震100回超)

    何もなければ、今日は別のことを書こうと思っていた。しかし、昨夜熊で震度7という大地震が起こってしまったため、予定を変更することにした。 私の場合はつまらないことだが、人には生きている限り予定や都合があるものだ。しかしその一切合財を無視していきなりやってくるのが天災である。神の御業かどうか、天災は忘れた頃にやってくる。いくら言っても、言い過ぎることはない。毎度毎度、いっそ感心するほど人間はすっかり忘れているものだからだ。 日のどこであろうと、地震はいつか起こると言われ続けている。そして誰しも、いつかは起こるだろうなとは思っている。そして時たま、備えや訓練をし、被害規模なんかを見積もってみたりする。しかし、その〈いつか〉に緊張感を与え続けることは容易ではない。 だからかもしれない。人は都合の悪い時には、決まって〈いつか〉という言葉を使う。「いつか会おう」、「いつかしよう」、そして「またいつ

    天災といつか(「平成28年熊本地震」熊本で震度7、余震100回超)
  • やつの癖は指パッチン(不快な人の癖のあれこれ)

    無くて七癖という。口癖や姿勢などの他愛ない癖ならともかく、実害を及ぼす癖も少なくない。 貧乏ゆすり、くちゃくちゃという咀嚼音、机を指先でカツカツ叩く、等々。あの不快さはいったいなんなのだろうか。無視して放っておけばいいのだろうが、しかしいったん気になり始めるや、自分でも信じられないほどの苛立ちを覚えてしまう。 過去に、貧乏ゆすりをする同僚がいた。たまにではない。一日中である。まるで泳いでいなければ死んでしまうマグロのように、朝から晩まで貧乏ゆすりをしているのである。視界の端で、ちらちらといつも小刻みに揺れている。嫌でも目に入る。その陶しさは日毎に膨らみ、ほとんど殺意にまで発展した。それで私は、猛然と貧乏ゆすりをやめていただけるよう丁重なメールを作成して、しかし送信する踏ん切りがつかずにいるうちにその同僚は退職してしまった。 同様に、机を指先でカツカツ叩く人も居た。あの時は真横であり心底我

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  • 満身創痍の五輪エンブレム(2020年東京オリンピックは誰のためか)

    例の件について書こうと思う。もはや経緯を説明するのも面倒な、五輪エンブレム問題である。 盗作、再公募、そしてようやく最終の4案に絞られたかと思いきや、その脇からお笑い芸人が気の利いたデザインのエンブレムを引っ提げてきて脚光を浴びたりしている。 もはや何がなんだかよくわからないし、全然わかりたくもない。そもそも、エンブレムはあくまでも脇役である。真にかんかんがくがくやるべきは、オリンピック自体の是非であり、予算であり、運営やおもてなしについてであろう。 それが何をいつまでもたかがマークについてぎゃあぎゃあやっているのであろうか。真面目な話、審査員にしろ市井の人にしろ、揃いも揃って絶望的な馬鹿ばかりなのではなかろうか。ちょっと考えればわかることである。たとえば、私はチチヤスヨーグルトが好きだが、そこにチチヤスのマークが無くても怒りはしないが、中身が無ければ怒るのである。 ここまでくればエンブレ

    満身創痍の五輪エンブレム(2020年東京オリンピックは誰のためか)
  • 冷たいジャングル(コンクリートジャングルが死語となった現代都市のランニング)

    ランニングに出かける。都会の街中を走る。ほこり立つ国道沿いで息を切らす。 言うまでもなく健康のためである。ただし、この状況で果たしてそれが健康に益するのかは、甚だ疑問である。養老孟司なんかも排気ガスを胸一杯に吸い込みながら走ってどうなるものかなどと言っていたが、まあその通りである。しかし、それでも私は健康の一助になるものと信じて走っている。 ほとんど幻想である。しかし、これは私個人のというよりも、〈共同幻想〉というべきものである。試しに皇居に行ってみればよい。いつか部活で野球部サッカー部バレー部云々と学校の周囲を走っていたが、それらが折悪く重なったとしてもこれほどの大所帯にはならなかったろう。あるいは皇居をキャンプファイヤーのように取り囲んでぐるぐる回るという、天皇を崇め奉る儀式なのだと言われれば、なるほどそういうものかと納得しそうなほどである。 そう、皇居に限らず、都会のランニングはどこ

    冷たいジャングル(コンクリートジャングルが死語となった現代都市のランニング)
  • 暴走しているのはメディアか、群衆か(日清カップヌードルCM中止に見るメディアと世論)

    私は、以下のニュースに接して首を傾げた者である。 矢口さんら出演のカップヌードルCM中止、日清が謝罪文 日清品は、ビートたけしさんや矢口真里さんらが出演するカップヌードルのテレビCMを、7日夜から中止した。ホームページに「ご不快な思いを感じさせる表現がありましたことを、深くお詫(わ)び申し上げます」とする謝罪文を出した。 CMは3月30日から放送されている「OBAKA’s UNIVERSITY」シリーズの第1弾。矢口さんや小林幸子さん、新垣隆さん、畑正憲さんが教員役で若者らに講義し、学長役のたけしさんが最後に「いまだ!バカやろう!」と呼びかけるもの。日清品によると、CM内の表現を問題視する多くの意見が寄せられ判断したという。 不倫騒動があった矢口さんは、CMの中では心理学部准教授役。「二兎(にと)を追うものは、一兎をも得ず」と力強く訴え、学生に「これ実体験だよね」と笑われる。ゴーストラ

    暴走しているのはメディアか、群衆か(日清カップヌードルCM中止に見るメディアと世論)
  • 新宅睦仁個展「コンビニ弁当の山」静岡市クリエーター支援センター(CCC)/静岡/2016/1/12(TUE)-2016/2/13(SAT)

    個展「コンビニ弁当の山」 静岡市クリエーター支援センター(CCC)/静岡 2016年1月12日(火)~2月13日(土) 10:00-20:30 休館日:日・祝日 入場料:無料 主催:静岡市クリエーター支援センター 共催:NPO法人 しずおかコンテンツバレー 推進コンソーシアム(SCV) 審査員:しりあがり寿(漫画家)、五十嵐太郎(建築評論家・建築史家)、小崎哲哉(『REALTOKYO』『REALKYOTO』発行人兼編集長))、久米英之(CCCプロデューサー)、大森久美(CCCキュレーター) 審査員講評『コンビニ弁当の山』について 約5m×3mの「コンビニ弁当の山」の絵画を中心に、「鏡」、「酒」、「音楽」を組み合わせ、宗教的儀式として構成したインスタレーション。 「コンビニ弁当の山」展示風景 DMのPDFダウンロード 個展「コンビニ弁当の山」ステートメント 全国津々浦々のコンビニで日々大量に

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  • 現代美術家 新宅睦仁のブログ

    ブログ一覧 ブログ「むろん、どこにも行きたくない。」 2007年より開始。実体験に基づいたノンフィクション的なエッセイを執筆。アクセス数も途切れず年々微増。不定期更新。 英語日記ブログ「Really Diary」 2019年より開始。もともと英語の勉強のために始めたが、今ではすっかり純粋な日記。呆れるほど普通の内容なので、新宅に興味がない人は読んで一切おもしろくない。 音声ブログ「まだ、死んでない。」 2020年より開始。ロスのホームレスとのアートプロジェクトでYouTubeに動画をアップしたところ、知人にトークが面白いと言われたことをきっかけにスタート。その後、死ぬまで毎日更新することとし、コンテンツ自体を現代アートとして継続中。 読書記録 2011年より開始。過去十年以上、幅広いジャンルの書籍を年間100冊以上読んでおり、読書家であることをアピールするために記録している。各記事は、自分

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  • 悪のお手本(仮面ライダーに見る悪と正義)

    “人間の悲鳴はいつ聞いても気持ちがいいなあ” 先日公開された、「仮面ライダー1号」での悪役のセリフである。 作は仮面ライダー45周年記念の超大作だということだが、私の率直な感想としてはお金を払ってまで見るものではない。しかし、このセリフだけは唯一の収穫であった。 というのも、ここまでベタな悪は逆に斬新であり、〈悪のお手〉とでもいうべきものであろう。現代、ここまで典型的な悪はもはや童話の中くらいにしか見つからない。たとえば、浦島太郎での亀をいじめる子供たちであり、シンデレラをこき使う継母であり、さるかに合戦においては蟹を騙す猿である。 それらはもっとも原初的かつ明快な悪といえるだろう。そう考えると、昨今見受けられる悪はあまりにもグレーである。良いような悪いような、あるいは皆が良い、もしくは悪いと言っているからそうなのかもしれない、というような。 その原因は、情報化社会の果てにあって、多様

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    tomonishintaku
    tomonishintaku 2016/04/05
    仮面ライダーからのコラム化
  • 健やかなる病(発熱して思う健康について)

    〈健康のありがたみ〉というものがある。それは、往々にして病気になって初めて知るという。 それはそうかもしれないが、〈病気のありがたみ〉というものもあるのではないだろうか。 というのも一昨日、風邪か何か、とにかくは発熱したのである。 夜、いつものように酒を飲んでいたのだが、どうもうまくない。楽しくもならない。むしろ頭が痛くなってきて、首の付け根が重だるい。それで早々に床についたのだが、今度は衣服や布団と肌のこすれるのがいやに過敏に感じられて、やはり痛むのだった。 絶対に熱がある。そう思った。体温計を持ってきて、熱を計った。しかし36.8度で、まったくの平熱であった。私は体温計が信じられずに、三度までも計り直した。しかし平熱だという結果は覆ることがなかった。 いぶかしがりながら、私はいつしか眠りについていた。それからふと目が覚めると、悪寒とともに、身体がはっきりと熱を帯びていた。どうして私はし

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    tomonishintaku
    tomonishintaku 2016/04/03
    ブログを更新しました。風邪か何か
  • 私は生まれて12,410日目(34歳の誕生日を迎えて)

    ビールは一杯目がうまい。いや、一口目がうまい。というか一口目がすべてである。 昔、こんな話をした。ビールは一口目が一番うまくて、しかも往々にして働いて疲れた後にこそ最高にうまいわけだけど、それを何度も味わえるとしたらいくらまで出せるか。ちょっと酔いが回ってきたころに、ある錠剤の薬かなんかを摂取すると、たちまち呑み始めに戻って改めて至上の「ぷはあ」をやれるとしたら、というくだらない話である。 その時に出た結論としては、千円は余裕で出すということであった。いま考えてみても確かにそう思う。むしろもっと出すかもしれない。あれは確かに何ものにも代えがたい快感なのである。 それはともかく、何にしろ素晴らしいのは一度目である。たとえば童貞を捨てる時の経験などは、誰しもめまいがするほど貴重でかけがえのない感覚を味わうものだ。しかし残念ながら二度目はない。0回目と1回目の落差は〈天の神〉と〈地の底の鬼〉ほど

    私は生まれて12,410日目(34歳の誕生日を迎えて)
  • 友人に飢える(大人になると友達が居なくなる)

    友人がいない、と思う。 でも、大人になったらみんなそんなものなのだろうとも思う。配偶者や家族が優先になり、あくまでも友人は〈非日常的〉な存在になる。 皆がそのことをどう思っているのかはわからない。当たり前のことだと、それで満足しているのかもしれない。しかし私は、最近なんとはない渇きを覚えている。あるいは飢えにも近いかもしれない。かつて日常的にあった濃密な親交というものが私の日々から消え失せて久しい。 そう、〈言葉通りの意味で〉友人がいないわけでは決してない。ただ、いまの私の率直な感覚としては、確かに私には友人がいない。 言うまでもなく、パートナーと友人とはまったく別物である。そうしていきおい、パートナーと居るか一人で居るか、その二択しかない。それでも別にいいとは思う。というか、それが〈普通〉なのだと思う。だって皆、そのように生きているのだろうから。しかしそのような日々の端々で、私は自分の内

    友人に飢える(大人になると友達が居なくなる)