歴史小説の主人公は概ね、名を知られた武将たちです。戦国大名や軍師たち、幕末から維新にかけてであれば近代への扉を開いた志士たち。ところが「潮音」(宮本輝、全4巻、文藝春秋)は、越中富山の一人の薬売りが主役です。 幕末に生まれた薬売りが、老いて自らの生涯をふり返る物語です。時代に翻弄された庶民の目に映る動乱と明治維新。うねる歴史と市井の人びとの暮らしが等身大に描き出されて、大河のように流れます。10年にわたって「文学界」に連載された大長編。 それにしてもなぜ、江戸でも京でも、薩摩でも長州でもない、越中富山の薬売りなのか。 ペリーの黒船来航の少し前まで、九州の端に位置する薩摩は巨額の赤字に悩む貧乏藩でした。関ヶ原では石田三成の西軍に加わった外様大名。幕府からも警戒、冷遇されてきた貧乏藩が、幕末に至って突如、領内に西洋技術を導入した製鉄所を建設し、強力な軍事力を整備して討幕の主役に躍り出ました。
