【1月30日 AFP】ポーランドの民主化運動を率い、ノーベル平和賞(Nobel Peace)を受賞したレフ・ワレサ(Lech Walesa)元大統領(73)について、共産主義政権時代に秘密警察に協力するスパイだったことを示す証拠を検察当局が31日に提示する。ポーランド通信(PAP)が報じた。 PAPが29日、ナチス・ドイツ(Nazi)支配下と共産主義時代の犯罪を訴追する「国民記録機関(IPN)」に近い匿名の情報筋の話として報じたところによると、自主管理労働組合「連帯(Solidarity)」の指導者だったワレサ氏をスパイとする結論には筆跡鑑定が決め手になったという。 IPNは昨年、共産主義政権時代の内相の妻から入手した秘密警察の文書に、「レフ・ワレサ、(暗号名)『ボレク(Bolek)』が署名した協力の契約書」が含まれていたことを明らかにしていた。 これに対して、連帯を率いて1989年に無血
2016年8月、ウクライナの首都キエフに、OUN-UPA(ウクライナ民族主義者組織-ウクライナ蜂起軍)の指導者の名を冠したステパン・バンデラ通りが誕生した。 「ユーロ・マイダン革命」後、ウクライナでは非ロシアの一環として歴史の書き直しが進んでいる。 しかしながら過度のウクライナ民族主義の強調は、国内分裂の火種となるばかりでなく、隣国との係争問題に発展しかねない。ポーランドは、大戦期におけるバンデラの組織の行為を「ポーランド人に対する虐殺」認定し、不快感を露わにしている。 脱ロシア化に振れるウクライナ 周知のように、ウクライナは複雑な領土編成の歴史を持っており、それぞれの地域が独自の歴史的経験に基づくウクライナ民族観を維持してきた。 そのため、歴代ウクライナ政権は、国内分裂を招きかねない分野、例えば言語や宗教、そして歴史については国家による介入を避け曖昧な状態にしてきた。 独立直後こそウクラ
特派員リポート 中川仁樹(ウラジオストク支局長) 赤茶色のれんがづくりの建物は、無残に崩れた外壁をあちこちに残していた。その周囲には、焦げたような黒い部分も目立つ。 「ドイツ軍が攻撃してきたのは、向こうからでした」 案内のラリサ・バビクさんが指さした方を見ると、建物に沿って小さな川が流れ、太陽の光を受けて水面がきらきらと光っていた。向こう岸には緑豊かな林が広がる。75年前の激戦の舞台とは想像ができないのどかな風景だ。 旧ソ連の構成国だったベラルーシ西部にあるブレスト。ポーランドとの国境に接するこの街の要塞(ようさい)に、1941年6月22日午前4時ごろ、ドイツ軍がソ連との独ソ不可侵条約を破って攻撃を開始した。開戦から30分間で約5千発という激しい砲撃を受け、厚さ約2メートルのぶ厚い壁も崩れ落ちた。ソ連軍は約1週間にわたって猛烈に抵抗したが、1カ月後には完全に制圧された。兵士ら約2千人のほか
ソビエト・ウクライナ戦争(ソビエト・ウクライナせんそう、ウクライナ語: Українсько-радянська війна)は、1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、キーウを首都とするウクライナ人民共和国と、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国およびその傀儡政権ウクライナ・ソビエト社会主義共和国との間に行われた戦争である。十月革命後に起こった紛争の一つ。ソビエト派の勝利で終わった。戦争中にウクライナの人口が著しい被害を受け、10人に1人が死亡した。1922年12月にウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシアが指導するソ連へ取り込まれた。 なお、ウクライナやロシアではこの時期にそれまでのユリウス暦からグレゴリオ暦へ変更していることに注意。 第一次ソビエト・ウクライナ戦争[編集] 背景[編集] 第一次世界大戦中の1917年の二月革命後のキーウでは、フルシェフスキ
1970年12月7日 1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相(社会民主党=SPD)はワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。 東との断絶―ハルシュタイン原則 ホロコーストへの深い謝罪として世界に報道されたこの姿に対して、西ドイツ人がどのように反応したかを語る前に、ブラント政権の政策に触れておきたい。 1969年10月に発足したSPDとFDP(自由民主党)の連立政権が、「新東方外交」を進めたことはご存知だろう。それは、原案者の名前を冠して「ハルシュタイン原則」と呼ばれた外交方針を“正式に”破棄することだった。 この原則を採用していたのは、63年まで西ドイツを率いたアデナウアー首相(キリスト教民主同盟=CDU)である。東ドイツを絶対に国家とは認めず、「ソ連地区(Zone)」や「中部ドイツ*」と呼んでい
旧陸軍知覧飛行場跡のある鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡のあるポーランド南部のオシフィエンチム市と9月に予定していた友好交流協定の締結を中止した。特攻隊員の遺族らから反対意見が相次いで寄せられたため、混乱を避けるため断念したという。 特攻隊関連資料の収集や公開を進める南九州市は、連携して戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていこうと、オシフィエンチム市と協定を結ぶ方針を決定。9月21日に同市のアルベルト・バルトッシュ市長を南九州市に招き、締結式を行う予定だった。 ところが、協定締結の方針が報じられた今月中旬から、市に対し「ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の象徴であるアウシュビッツと特攻が同質のものとして受け止められかねない」といった反対意見が、電話やメールなどで、遺族からも含め計百数十件寄せられた。 このため市は27日、「このま… この記事は有料会員記事です。有料会員になると続
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