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明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【前編】 : Japaaan
日本の歴史上、最も有名なクーデター「本能寺の変」を成した戦国大名「明智光秀(あけちみつひで)」。... 日本の歴史上、最も有名なクーデター「本能寺の変」を成した戦国大名「明智光秀(あけちみつひで)」。一躍天下人候補に躍り出た光秀だったが、同じく織田信長の家臣であった羽柴秀吉との戦いによって敗死した。 光秀と秀吉が争った「山﨑の戦い」における光秀敗死の原因には、蜜月関係にあった二人の戦国武将の存在が大きく関わっていたという。今回は、明智光秀を裏切った二人の戦国大名と光秀の関係性についてご紹介する。 1.細川藤孝/幽斎(ほそかわふじたか/ゆうさい) 細川藤孝は1534年に京都で生まれ、前半生は足利将軍家に仕えた。1546年に足利義輝の偏諱を受け藤孝と名乗る。義輝が暗殺された後は、弟である覚慶(15代足利将軍・足利義昭)の将軍擁立に紛争した。 明智光秀と出会った時期は明確ではないが、藤孝は義昭の擁立活動の際に越前国の朝倉義景を頼った。当時の越前には美濃国を追われ浪人生活をしていた光秀がいたとされ、
2020/12/28 リンク