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故西部邁を思ふ――コムニストたらんとせし者 ファシスタたらんとした者に誄(しのびごと)申すーー | ちきゅう座
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故西部邁を思ふ――コムニストたらんとせし者 ファシスタたらんとした者に誄(しのびごと)申すーー | ちきゅう座
<岩田昌征(いわたまさゆき):千葉大学名誉教授> 西部邁氏が覚悟して、多摩川に入水した。さむらいの... <岩田昌征(いわたまさゆき):千葉大学名誉教授> 西部邁氏が覚悟して、多摩川に入水した。さむらいの入水といえば平氏を想い起こさせる。かりに若くして覚悟していたとしても、三島・森田の両氏の作法(武士社会が源氏の下に統合されて以来の)にならうことはなかっただろう、と報に接して一瞬感じた。 私=岩田は、60年安保の時代、青木昌彦氏や西部邁氏とは同じ方向の行動をとっていたが、運動における位階が全く異なっていた。両氏は、あくまで闘争における高級参謀であり、師団長であり、将官であった。私達は現場の一兵卒であった。ブントの指導集団が駒場の学生自治会を通して、何月何日何時に何処へ集合し何処へデモせよ、との指示命令があってはじめて行動できた兵隊であった。だがしかし、赤紙一枚で徴兵された受け身の存在ではなく、積極的に指示を待ち構えていた能動的義勇兵であった。それ故に、命令者として彼等は日本国家の訴追を受けたが