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衆院選
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以前当たり前でなかった光景が、今では当たり前になっているということがしばしばある。 善い悪いの価値判断は別にして。 そのひとつに、何でもかんでも携帯やスマートフォンのカメラでパシャリと撮影し、その場でフェイスブックやらツイッターに投稿している人々の光景がある。 特に、レストランやバーなどの飲食店で、自分や仲間の目の前に出された品々を、バシャバシャ撮りまくり、味わう前に、「まずは激写!」されている方々。 この意味が、よく分からない。 っていうか、はっきり言ってみっともない。 多勢に無勢という言葉があるように、今では多くの人々がやっている行為なのであまり奇異には映らなくなってきたが、それでも。。。 Foodstagramという英単語がある。 Food(食べ物)と写真共有ソフトのInstagramを合わせた造語だそうで、「スマートフォンなどで料理の写真を撮ってネットに載せることに
イラスト、、、、趣味ではなく仕事というカテゴリーです。 なぜか、イラスト(絵)となると、趣味の延長の様にとらわれがちです。 通常の会社員が、営業したり、事務処理をしたりするのと同じ仕事です。 絵は、値段の無いもの、気持ちで描き受け取るもの、、、??? まるでお布施ですね。。 以前、B1サイズのイラストで原寸で描いて頂けませんか。 という、打診がありました。 予算は、7千円ぐらいで描いて頂けませんかと。。。 その案件は、丁寧にお断り致しました。その際、お断りする理由を述べました。 <以下> 案件の絵、B1サイズを描くには最低でも1週間はかかるという事。 そこで、なぜ、7日間/7千円でお引き受け出来ないかという事を 説明しました。 平均的な会社員の月給を日給にすると約1万2千円です(あくまで平均)。 つまり、7日間×1万2千円=8万4千円になります。 日給で計算し
いますよね。 特に、中年以上の男性諸君の皆さん、身に覚えありませんか? 当たり前に口に出していませんか? 口癖のように愚妻という言葉を使っている方々に質問です。 その愚妻さんが、アナタのことを愚夫とでも外で言いふらしているとしたら、気分いいですか? 良妻の対になる愚妻は、広辞苑にも記されている謙遜した表現だというが、そろそろ、こんな〝品のない〟言葉を使うのはやめにしたらいんじゃないかと思います。よく、得意げに「うちの愚妻がねぇ.......」などと話しているオジサンを見かけますが、はっきり言って気持ちが悪い。謙遜にしてははなはだ一方的。自分の妻の人格を否定しているようなもので、その表現を聞くたびに思う。 「言ってるあんたは何様なんだ」っと。 愚かという表現は、明らかに上から目線。愚妻と言った時点で、夫は明らかに自分が妻より上である意識がある。でもね、実際、家に帰ったら妻に主導権
こんにちわ。(川)です。 久しぶりの投稿です。 細々と活動しておりました、 在仙オヤジ編集者3人衆ですが、 このたびKappo誌上におきまして、 震災本ベスト45(現在は5冊プラスされ、計50冊となっております) を発表しました。 なぜそうした取り組みをしたか?については、 下記をご覧ください。 ============================= 2011年3月11日以来、おびただしい数の震災関連本が刊行されてきました。あるデータによると書籍・雑誌を含めて2300冊を超えています。私たちの私見ですが、自費出版なども含めれば3000冊近くにも及ぶのではないでしょうか。被災地の同業者からいえば残念ながら「便乗本」としか呼べないものも散見されますが、それにしても「ひとつのテーマの出版ラッシュとしては史上空前」ともいわれるだけあって、空恐ろしいほどものすごい数の本が世に
「ローカル」だからこそ、出来ることがある。 仙台市若林区土樋にから番組を発信するローカルラジオ局「ラジオ3」は、毎週火~金曜に復興応援特別番組「がんばろう仙台・宮城」を放送している。主な内容は、宮城県や仙台市が発表した震災関連の情報や、リスナーから寄せられた震災関連のイベント情報などだ。 「東日本大震災の発生から約2年がたち、人々の意識は別の前向きな話題に向けられがちです。しかし、震災を発端とする問題や震災関連の情報は尽きません。私たちは、そういった部分にこそ目を向け、番組で取り上げて行きたいと思います」と語るのは、同局のマーケティングチーム課長の佐藤研さん(46)だ。 【取材に答える佐藤さん】 2011年3月11日、東日本大震災が発生した瞬間に佐藤さんは同局のスタジオにいた。揺れが収まると、まずはお互いにスタッフの安否を確認。機材に故障などがないことも分かると、スタジオにいたスタ
12月1日、新宿発の特急あずさ17号に揺られて山梨県の小淵沢(北杜市)に着いたのは、午後3時。およそ半年前、初めて訪ねた6月21日の空には、甲斐駒ケ岳(2、967メートル)が大きくそびえていましたが、暗い鈍色の雪雲がその姿を塗り込め、南アルプス山麓の厳しい冬の訪れを告げていました。 「雪が降ったよ。うち(南相馬市鹿島区)から持ってきたこのトラックは、タイヤの径が小さいので、冬道は無理かもしれないな」。駅まで迎えに来てくれた小野田等さん(59)は、仮住まいをする同市白州町に向かう長いループ状の下り坂を運転しながら、「雪は少ないが、冷え込みと凍結がすごいそうだよ。見てごらん、こっちのトラックはタイヤが大きいだろう」 小野田さんは、計9ヘクタールの田んぼとイチゴのハウスを営んだ地元を、昨年3月11日の津波被災と福島第1原発事故後の厳しい風評、東京電力との損害補償の交渉難航という三重の苦渋の末
3月23日、仙台を朝早く出て、国道6号を南に向かっていました。震災で崩れた道路の復旧工事が今も続く宮城県山元町から相馬市を過ぎ、南相馬市鹿島区に入っていつも通る歩道橋のそばで、白い大きなものが宙に浮いているのが見えました。漁船です。津波で跡形もなくなった浜の漁港から3キロ近く流されてきた漁船5、6隻がそのままずっと国道脇に、記憶のモニュメントのように放置されていました。1年が経っても何も変わらぬ被災地の姿を象徴するもののように。しかし、年度末になってようやく撤去の予算が執行されたのでしょう。 この朝見たのは、撤去される最後の1隻。この1年の重さがうそのように、軽々と大型のクレーンに吊るされ、どこかへ運ばれていこうとしていました。風雨にさらされた後の修理は可能なのか、それ以前に漁船の主は健在でいるのか、だとしてもすべてを流された浜で、しかも福島第一原発事故の汚染水の影響で漁獲自粛が続く海で
このブログをお読みいただいて、ありがとうございます。 昨年3月14日から書いていますブログ「余震の中で新聞を作る」が、このほど本になりました。タイトルは「悲から生をつむぐ」(講談社)。これは津波でわが子を亡くした親たちの集い「つむぎの会」を紹介したブログの一編(49回)から取りました。被災地を歩いて出会った人たちに感じた思いでもありました。表紙のヒマワリ畑は、昨年8月、やはり津波と放射能渦から立ち上がろうとする南相馬の農家・八津尾初夫さんが有志を募って創りだした風景で、私が撮った写真でした(37回『種まく人/夏の日差す』)。 ブログは、被災地の新聞の現場の記録を、と日記のように始めたものでしたが、新聞記事の短い枠では伝えきれない風景や状況、声を可能な限りくまなく伝え、製紙工場の被災による紙不足の事態をも超え、発行エリアをも超えて届け、人と人をつなげられるメディアの可能性を震災の渦中で試
私事で申し訳ありません。三浦広子さんという郷里・相馬の中学校の同級生がいます。卒業と同時に引っ越して石巻女子高に進み、再会したのは5年ほど前。久しぶりに同級会に参加された日、晴れやかな表情の中に、しばらくぶりの旧友たちへの遠慮が言葉の端々にあったので、「いつでも、帰ってきなよ」と声を掛けた後、そのままになっていました。ある難病を抱えている、とも笑って語る、強い人でもありました。そして、昨年3月11日の津波からしばらくして、石巻市で亡くなった人々の名簿に、その名前を見つけました。住所が、南浜町。市中心部を流れる旧北上川の右岸で、津波と大火災で「廃墟の街」になった、と報じられた地域のひとつでした。 『燃え盛る家や車が、まるで生き物のように泳ぎ、自分を襲ってくるように見えた。 ○○さんは地震後、石巻市内の勤務先から車で同市門脇町5丁目の自宅に戻った。「日和山に逃げよう」。両親を促した後、隣家
厳寒が続いて東北がすっぽり雪景色となった1月21日の土曜日、ずしりと重い宅配便の段ボール箱が、名取市の自宅に届きました。開けると、大きな赤いリンゴが詰まっています。福島県新地町の畠米七さん(49)に注文した10キロの「サンふじ」でした(『余震の中で新聞を作る45~リンゴ畑に吹く風』参照)。箱の中には、放射性物質が「不検出」との結果が並んだ、昨年10月18日付の検査資料が同封されていました。早速1個、皮をむいて切り分けると、果肉にたっぷりの蜜。すべて廃棄処分になったと思っていたリンゴの甘さから、農家の思いがにじみました。 同12月29日、「リンゴつぶすしか…/風評 終わり見えず/親子二代の農園揺らぐ」という記事が河北新報社会面に載りました。社会面連載「ふんばる」で紹介した人々(畠さんは昨年10月23日付)のその後を伝える特集の1本で、苦渋の表情を浮かべ、地面を埋めたリンゴを草刈り機で押しつ
体育館の床一面に並ぶ無数の段ボールの箱。その中にきちんと並べられた小さなアルバム。その一つを手に取り開くと、一つの見開きに4枚の写真が並んでいる。写真は、あちこちインクが流れて白い影になり、表面に砂の跡が残る。 体育館のステージ側には見開き四枚の小さなアルバムに収まった写真が、ステージから見て奥の側には、大きさもまちまちなアルバムが箱に収められている。 「私がこの活動に加わった五月ごろは、まだまだ体育館一面が洗浄を終えていない写真ばかりでした。この一面が、本当に写真ばかりでした」 「ゆりあげ思い出探し隊」の新井洋平さんは振り返る。今、体育館の箱の中に、見開き四枚の新しい小さなアルバムに入っているのは、名取市閖上(ゆりあげ)の津波被災地で見つかり、ここに持ち込まれ、全国各地でボランティアによる洗浄作業を経て戻ってきた写真である。 津波の際、閖上小は一階部分が冠水した。現在、閖上小は近
津波で子どもを亡くした親が集う「つむぎの会」の取材以来、ひと月ぶりの気仙沼でした(49回『悲から生をつむぐ』参照)。「震災の取材で私が出会った人が、どんな新年を迎えているか、訪ねたい」という同僚の写真部・門田勲記者に同行して、1月5日、今回は仙台から2時間半の冬道を。車の外に少し出るだけで体が冷え切るほどの北風と雪に、気仙沼の町は薄白く霞んでいました。 3月11日の大津波でほとんどの建物が流され、荒れ野のような風景に無人の低層ビルがぽつりぽつりと立つ魚市場前、前日に近海マグロ船が正月明けの初水揚げをした漁港、仮設の店が集まって生まれた「復興屋台村 気仙沼横丁」を回って、車は鹿折(ししおり)川沿いに開けた街、鹿折(ししおり)地区に入りました。 『津波は、海岸から1.5キロ離れた国道45号まで押し寄せた。その後、火災が起きた。火は、JR大船渡線の鹿折唐桑駅前一帯を包んだ。今も焦げ臭さが覆う
話は、4月に戻ります。福島県飯舘村飯樋の農業佐野幸正さん(64)、ハツノさん(62)を震災後、初めて訪ねたのは12日でしたが、本来取材を予定していたのは、前日の11日でした。 村に到着する前の午前中、既に首相官邸から飯舘村を含む「計画的避難」の区域指定が発表され、急きょ私はそちらの現地取材に関わることになったのでした。 長い1日となったその日、耳にした多くのことも、飯舘の人々のもうひとつの訴えとして、記録しておかねばと思います。 村役場に着いたのが昼ごろ。騒然とした状況への想像はあっさり裏切られ、役場内外は静まりかえっていました。1台、玄関に車が止まり、女性が村職員に何事かを頼んで、段ボール箱を積み込んでもらいました。後部のトランクには荷物がいっぱいです。 「(福島県)富岡町から3月12日の朝、(福島第1)原発の1回目の爆発が起きる前に、だんなの飯舘の実家に避難してきたんです」と、
4月30日夕、福島県飯舘村の役場周辺は、人と車でごった返していました。村を東京電力の鼓紀男副社長らが訪れる予定になっていたからです。福島第1原発の事故が起きて以後、東電の経営幹部が住民とじかに接する機会は初めてで、会場の飯舘中学校体育館には、午後7時の開会を前に1000人を超える住民が集まっていました。 私はその取材のために村に行ったわけではなく、たまたま同日午後に同村飯樋の農業佐野幸正さん(64)、ハツノさん(62)夫婦を訪ね、村にとって大きな出来事がある、と聞いたのでした。 その3日前、村の有志が独自に催した「美しい飯舘村を還せ! 村民決起集会」に、約200人が参加したそうです。『「国は東電を生かすために村の6000人を殺そうとしている」「美しかった村をそのままの形で返してほしい」などと怒りをぶつける声が相次いだ』と伝えた本紙記事を読み、佐野さん夫婦がどのような思いでいるか、気にな
朝はボランティアセンターの受付班、午後は活動を終えたボランティアさんをねぎらうコーヒー班。佐藤美幸さん(仙台市太白区)の、仙台市津波災害ボランティアセンターでの1日の活動です。 地震当日の3月11日は仕事が休みで、バイクで出掛けている時に地震に遭ったという佐藤さん。翌日は出勤日で、地震で散らかった職場の片付けをしました。 その2週間後、仕事が休みの日に太白区にあったボランティアセンターに行きました。しかしボランティアの活動がボランティア数に対して少なく、もっと被害がひどかった若林区に向かうことに決めました。そこで一般ボランティアとして2回ほど活動したものの、自分の体力ではなかなか続けられないと実感。ちょうど勤めていた職場での契約も切れたため、長期間続けられる運営スタッフを4月中旬に希望しました。 「自分から『運営スタッフやりたいです』って声をかけました。どんな職業を経験したのか尋ねら
「紹介したい人がいる。農家の仲間なんだ」。南相馬市原町区太田の市議・農業奥村健郎さん(54)(余震の中で新聞を作る22回参照)からのお話で、同僚の写真記者と萱浜地区(かいばま)を訪ねたのは5月1日でした。 福島第1原発から20キロ圏のすぐ外にあるJR磐城太田駅から、北東に約3キロの海岸部。約束の時間は午前8時です。南下してきた自衛隊の車列の後に続いて国道6号を左に折れると、間もなく周囲の様子が変わりました。 がれきやごみが散乱する田畑、道路脇の漁船、半壊した家々が現れ、背の高い防風林を縫って浜近くに出ると、そこは、ほとんど何もない荒れ野の風景。70戸あると聞いた集落は、津波で消えていました。 車を止めて目に入ったものは、たった1軒、北外れに半壊の姿で残った大きな日本家屋と、その前に並んだ自衛隊車両、行方不明者の情報が貼られた掲示板、その脇に立てられた鯉のぼりでした。掲示板には、「あき
「避難生活に耐えられず、家に帰ってきた」という南相馬市原町区の人の話を聞きました。先に紹介した鹿島区の農家小野田等さん(58)の長年の農家仲間、渡部利徳さん(81)。 3月31日、小野田さんを取材中、「4日前に帰ってきた」と報告がてら、お茶飲みに訪れました。福島第1原発(福島県大熊町・双葉町)事故の先行きが見えず、南相馬市など原発周辺の街の人々の避難生活が長期化必至となった時期です。突然の避難生活は、高齢者には過酷な体験だったといいます。 渡部さんが自宅を離れたのは同月13日。放射線技師の息子さんから「(原発が)危ないぞ」と言われ、専門職の一言に、「着替えも持たたないで」奥さんと軽乗用車に乗り、娘さんの家族の車と2台で、首都圏にいる身内の元を目指したといいます。 ところが、東北自動車道の二本松付近の給油所でガソリンを入れられず、福島市に目的地を変え、避難所となった体育館にたどり着きま
「国から避難指示のない段階で、市民とともにこの相馬市を離れるつもりは毛頭ない。(中略)市民にはご不自由をかけているが、ここで生活の不便さや原発の恐怖心に負けてしまったら、相馬地方は復興が出来ないに違いない。(中略)最低、米と味噌と梅干しがあれば、生きてはいける。天明の飢饉はもっとひどかったはずだ。よってろう城をしながらここで頑張る」 3月25日、相馬市の市長が全戸に配布した「広報そうま 号外」の「ろう城」宣言です。福島第1原発(福島県大熊町・双葉町)事故の後、自身のメールマガジンから転載した一文。 実家でこれを私に見せた母親は「ろう城とはびっくりした」と言いましたが、市のトップが揺るがない姿勢を示したのは、原発周辺の住民の不安が極にあったこの時期、ひとつの解答であったと思います。 前にも書きましたように、相馬地方はかつて平将門の末裔の相馬氏が治めました。戦国時代、北隣の伊達政宗との抗
東北地方太平洋沖地震災害復興のために、「東北学院大学災害ボランティア・ステーション」を設立し、地域社会復興のために協力いたします。本組織は、既に動いて活躍している市の社会福祉協議会に協力し、地域の情報を集約・共有し、公的私的を問わず支援を必要としている場所に、可能な範囲で援助を提供しようとするものです。 ■東北学院大学災害ボランティアステーション
Cafe Vita 新聞は人のつながりを創るCafe。暮らし、文化、社会、メディア…。日々のニュースと私たちをつなぐものを探し、語りましょう。 『私の従兄弟家族は気仙沼で被災しましたが、なんとか家族 全員無事との知らせが一週間後にきました。 その、安否不明の最中に、GoogleSVの保存の話を聞いたの です。力強く明日を生きるためにこそ、記憶という支えが必 要だと思います。http://togetter.com/li/112160』 本ブログの『余震の中で新聞を作る』の第9回に、読んでくださった“mterachan”さんから、上のようなコメントをいただきました。 メールのやり取りをしましたところ、名取市内の男性が津波の被災地のかつての姿を写す「ストリートビュー」の保存を、ツイッターで運動されていると知り、話を伺いました。以下は、その報告です。 ◇ 3月11日の津波で失われた
南相馬市鹿島区北屋形の農業小野田等さん(58)を再訪したのは、4月30日でした。八沢浦干拓地を見下ろす自宅裏には、山桜が咲いています。 ひと月前には津波の潮水を満々と残し、昔の浦の姿に戻っていた干拓地は、元の田んぼの土が現れ、自衛隊員たちがおびただしい足跡を刻みながら捜索活動を行っていました。 「ポンポを20~30台もフル稼働させて、やっと排水できたんだ」と小野田さん。まだ広い水たまりも見えましたが、3月11日の地震で地盤が下がったところに、前日の雨水がたまったとのこと。 「元に戻すには、ダンプで何百台分の土を入れたらいいのか」。排水路網の復旧、塩分の除去を含め、耕土の復旧にはどれほどの時間と労力を要することでしょう。津波で家や農業機械、1年の生産基盤も流された農家が、それを待つ余力があるかどうか。 ログハウス造りの自宅にお邪魔し、話を伺っていると、玄関に来客がありました。顔は見え
郷里・相馬市の友人の紹介をもらい、隣接する南相馬市鹿島区の農業小野田等さん(58)を訪ねたのは、3月31日でした。 鹿島区(旧福島県鹿島町)は、相馬市と南相馬市の中心部・原町区(旧原町市)に挟まれた、のどかな田園の町。小野田さんは同区北屋形という地域に自宅があり、約10ヘクタールの水田と、ハウスのイチゴを作っています。 相馬市から南相馬、いわき方面へは、海岸沿いの国道6号線をひたすら南下します。私の実家がある相馬市中心部から鹿島区まで、車で20分ほど。福島第1原発(同県大熊町・双葉町)から30キロ圏の外にあります。その道すがら、浜に近い場所では道路脇に漁船が横たわり、3月11日の大津波の爪痕をいやが上にも目にします(現在もその光景は変わりません)。 小高い丘陵の上にある小野田さんの家は、旧ソ連から取り寄せた木材を使ったというログハウスでした。 旧原町市の農家に生まれ、重機の会社「コ
「ボランティアしたい人」と「ボランティアして欲しい人」をもっと繋ぐために。 仙台を拠点に活動するボランティアインフォの活動ブログです。 少し前になりますが、6月30日に大槌で開催された「おおつちありがとうロックフェスティバル」のボランティア募集のお手伝いをさせていただきました。 イベント前日の準備から当日の交通整理まで、100人以上のボランティアさんが参加してくれました。 イベントがうまくいくためのお手伝いをするボランティア以外に、イベントの様子を記録する取材ボランティアをやってみてはどうかとイベント実行委員会にご提案させていただき、取材ボランティアの募集も実施させていただきました。 取材ボランティアとして13名の方が集まっていただき、イベント準備の様子から、ライブの様子など取材ボランティアさん独自の視点で取材をしていただきました。 取材していただいたりカメラで写真を撮っていただい
3月25日に訪ねた相馬市柚木の老人保健施設「森の都」には、同11日の地震と津波の後、13人もの避難者が助けを求めて駆け込んだ、と聞きました。浜から逃れてきた1人の母親は、「黒い鉄の壁だった」と語り、「がたがたと恐ろしげに震えていた」と。「黒い壁」「鉄の壁」という言葉は、それから郷里で会った何人もの口から聞くことになりました。 相馬の街は、相馬氏の根城「馬陵城」を囲む旧城下の中村地区と、いずれも漁港がある原釜・尾浜(相馬港と海水浴場も)、松川浦、磯部という「浜」の地域に大きく分かれます。その間は距離にして4キロほど。ですから、中心市街はもちろん津波を免れました。 私の実家は中村のはずれにあり、周囲の被害はもっぱら屋根瓦が落ちたり、古い蔵の壁やブロック塀が崩れたり、というところでした。 実家も屋根瓦が落ちたのですが、修理されたのは2週間後。ようやく来てくれた瓦屋さんは、「なにせ700軒分
ジュンク堂書店仙台ロフト店は 昨日から営業を再開しました わいわい!ひゃっほう! もうもう、うれしくてうれしくて 昨日も早起きしちゃいましたが 今日も早起きです 昨日は十分な告知もできないままに開店したにもかかわらず たくさんのお客さまにご来店いただきまして ほんとうにほんとうに、うれしいです ありがとうございました 遠くで、近くで、応援してくれたみなさま うれしいことばをかけてくれたみなさま 心配してくれたみなさま ちからをかしてくれたみなさま ものもことばもきもちも念力もいっぱいいただきました おかげでちからがわきました ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました みなさんと、つながっていられること、ありがたくて うれしくて、しあわせです ほんとにほんとにありがとう! お得意さまのご夫妻がうしろからそうっと近づいて来て わっ、と背中をたたか
被災された方と全国の一般家庭を結ぶ宿泊マッチングサイトを開設 「被災地に選択肢を!」関西の有志が奮闘、3日間で作り上げ開始。 ------------------------------------------------------- ㈱ゼウスソフト(大阪市 社長 高木 豊大)は、全国の一般家庭を対象に、宿泊希望の人を無償で受け入れる震災後初となるマッチングサイトを構築、「ココロゼウス」として運用を開始致しました。 今回の震災に対し募金以外の行動に、東日本は節電や自制など多くの協力がありますが、阪神大震災を乗り越えた関西を中心に西日本の国民だって何か具体的な行動ができるはず!っとの想いがFacebook上に集まり、1つのアイデアのもと数えきれない協力を頂き、一刻も早い支援を目指し本サイトは発案から3日という猛スピードで制作、運用開始に至りました。 そのアイデアは被災地と復興の為
広く取られた海に面した窓、 さんさんと降り注ぐ春の陽。 きらきら輝く水面。 老後はこんなところに暮らしたいなぁと憧れてしまうような志津浜にある老健施設ハイム・メアーズは、この4月の開所を目指していた。 が、今ここは未だに電気も水もない殺伐とした避難所となっている。 ここに3人のフィリピン人のお嫁さんたちが避難していた。 皆さん、小さなこども、お年寄りを抱えている。 パスポートも外国人登録証も、みんなみんな今は静かなあの海が一瞬にして呑みこんでしまった。 昼間は冗談を言い合って笑っていられるが、電気の点かない長い夜は不安で眠れず、人知れず泣いてしまうという。 入谷中学校では、今春からこの町で始めようと準備を進めていた日本語教室の町側の担当者Mさんの行方不明を知らされた。 避難所本部のご担当のSさんも水門を閉めたあと車ごと波に呑まれ九死に一生を得たという。 胸ポケットに入
夕刊編集部の安倍樹です。 今日は、泉区や青葉区を自転車で回ってきました。あくまでも目で見た範囲ですが、スーパーや青果小売店が開いており、物資はあるように思えました。ただ、水道がまだ復旧していない地区も多く、高齢者の生活が心配です。 JR仙台駅の大きな被害が伝えられています。建物の横を通ってみました。閉鎖された1階の入り口に、いくつもお知らせが張ってありました。とりわけ目を引いたのは、「危険」と書かれた赤い紙。建物内には入るな、という警告です。大時計は白いカバーに覆われていました。ショックでした。 復旧作業は進んでいます。重機がタクシープールに置かれ、新幹線ホームには工事関係者の人影が見えました。時間はかかるでしょうが、再びあの仙台駅の姿を見せてくれるはずです。 では、人間はどうなのか。津波で家族や友人や大切な人を失ってしまった人たちは、再び笑顔を取り戻せるのでしょうか。 神戸で震
イッコさま ありがとうございます。 何よりの励ましの言葉です。 今宮城県内は停電しているので、 ほとんどの方はテレビも見ることができません。 なので、この紙面がほぼ唯一の目で見る地震なのです。 社内の一部で見られるテレビを見ましたが、 何ともいえない気分になります…。 今テレビではヘリコプターで救助されている様子が映し出さ れています。たとえ一人ずつでもこれで助かる人がいるのは ありがたいことです。一刻でも早く、一人でも多く暗くなる までに救助して欲しいものです。 まだまだこれから長くつらい闘い・・そのとおりだと思い ます。ちょっと離れているだけで、何も出来ずテレビを見て いるだけ・・無力を感じます。ただ皆様のご健闘を祈ってお ります。 今は気が張っているでしょうが、風邪を引かれませんよう に。休めるときには休まれますように。
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