サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
おみそ汁
blog.goo.ne.jp/jikisaim
先月、ある出版社の企画で、養老孟司先生と対談しました。大変勉強になり、有り難い時間でした。 実は、養老先生とのご縁は、今回が初めてではありません。 最初は、先生の著作が文庫化された際に、末尾の解説を依頼されて執筆した時です。 原稿を読んだ私は、高名な科学者が、自分の研究に使う「方法」に対して、これほどまでに意識的であるのに驚き、同じ科学者がほとんど当たり前に使っている方法の意味を、かくも自覚的かつ反省的に思索しているとなると、業界(「学会」)では「浮く」だろうし、出世しないだろうなあ、と思ったものです。 と、同時に、間もなく日本では類まれな、傑出した思想家になるのではないかと思いました(当時すでになっていたのかもしれません)。この予想は、かなりの線で当たっていたと言えるのではないでしょうか。失礼ながら、このことを先生に申し上げると、頬をゆるめて笑っておられました。 二回目は、私の著書がとあ
岩手県の新聞社から依頼されて、「復元納棺師」の肩書を持つ笹原留似子さんと対談しました。 「復元納棺師」とは、笹原さんがたった一人で始めた活動に、依頼者が名付けた呼称だそうです。つまり、彼女以前にそのような仕事をする人は無く、彼女が始め、開拓し、育てた技術なのです。 「納棺師」と言う仕事は、すでに知られています。遺体の身と衣服を調え、棺に納める業務です。 他に「エンバーミング」と呼ばれる仕事もあります。これは遺体を消毒・保存処理したり、部分的に修復する技術です。 笹原さんの仕事は、これらとは違います。彼女は、事件・事故・災害などで大きく損壊した遺体を、生前の面影に近いところまで「復元」し、遺族が大切な人との「別れ」を実感し、納得できるように導くことなのです。 私はいくつかの遺体のビフォー・アフターの写真を見せてもらいましたが、実に驚くべき技術でした。 他人が見たらトラウマになりそうな、損壊と
常に同一でそれ自体で存在するもの、それをインド古語では「アートマン(我)」と言います。今風に言うなら「実体」です。仏教は、この実体(我)について、「一切のものは実体ではない(非我)」、または「一切のものに実体は無い(無我)」と言います。 そして、実体ではない、あるいは実体は無いままに、ものが存在している事態を「空」と言います。これは、上座部系仏教と大乗仏教に共通する最も基本的で、ユニークなアイデアの一つです。 問題は、この「空」の解釈です。代表的な考え方は2つです。一つは「要素主義」、もう一つは「相互主義」です。 「要素主義」は、存在するものを要素に分解して、その組み合わせでものの存在を説明する考え方です。 たとえば、我々の肉体はそれ自体として存在するものではなく、膨大な細胞の寄せ集めであり、その細胞は分子の、分子は原子の、原子は・・・・と説明していくわけです。 しかし、このナイーブなアイ
最近よく世間で聞く言葉に「共生」と「多様性」があります。この言葉にどのような意味を読み取るかは、人それぞれかもしれせんが、私はこれはそう簡単に扱える文句ではないと思います。 我々の社会の問題として「共生」と言うなら、その最も直接的な意味は、自己と自己ではない誰か、つまり他者との「共生」でしょう。だとすると、「多様性」とは、その他者が人種、民族、言語、文化的・宗教的背景などで様々に異なることを言うのだと思います。だとすれば、話の要点は、「多様な他者との共生」ということになり、これは簡単なことではなく、その実現には、すでに言われているように「寛容さ」、もっとはっきり言えば忍耐が必要だと思います。 なぜなら、そもそも、「他者」とは根源的に「わからない」存在だからです。このわからなさは、死のごとき「絶対的わからなさ」とは、すこし性格が違います。他者のわからなさは、原理的な理解不可能性ではなく、わか
仏教のまとまった戒律として最も古い「パーリ律」を見ると、殺人について次のように述べています(「人体戒」)。 「いずれの比丘であっても、故意に人体の生命を奪うならば、あるいはそのために殺害の道具を持つ者を求め、あるいは死の美を賛嘆し、あるいは死を勧めて、『ああ、君よ、この悪しく苦しい生は、あなたにとって何の役にたつのか。死はあなたにとって生に勝るだろう』と言い、そのように思い、そのように決心して、いろいろな方法で死を賛美し、あるいは死を勧めるなら、これは波羅夷罪であって、(これを犯す者は)共に僧団に住むべきではない」 条文解釈の部分では、「人体」に胎児が含まれています。「波羅夷罪」は教団追放になる仏教の最重罪を言います。 これを一読すると、殺人、殺人教唆、堕胎の実施、自殺教唆が禁止されていることは、すぐにわかるでしょう。安楽死や尊厳死が許容されるかどうかは微妙なところでしょうが、少なくとも積
最近の報道で、私が強い印象を受けた発言と言えば、一つは、スウェーデンの高校生であり環境活動家、グレタ・トゥーンベリさんの国連でのスピーチであり、もう一つは、ローマカトリックのフランシスコ教皇が広島・長崎で行った演説で、これは私ばかりではなく、多くの人々の記憶に残るものとなったでしょう。 気候危機への早急な対策を激越な口調で促す、10代のグレタさんのスピーチと、核兵器の使用も保有も倫理的に許されないという、80歳を超える教皇の穏やかながら断固たる主張も、一見対照的でありながら、これら二つの発言には共通するものがあります。それは「現実を知らない」「ただの理想論」と批判されやすいだろうということです。 グレタさんの発言は、実際に各国の「現実」的な為政者や中高年層から繰り返し批判されていますし(あの言い方のせいもあるでしょう。しかし、怒りの唯一の効能は、問題の所在を一挙に劇的に露わにすることです)
昨日、青森県内有志の曹洞宗僧侶の方々と『正法眼蔵』の講読をしてきました。2回目です。前回がプロローグで、今回から「現成公案」の巻に取り掛かりました。お招きのある限り頑張りたいと思っています。 始めて1年余り過ぎた、永平寺での修行僧とのワークショップ形式の月例講義は、「現成公案」の巻が終了し、次回から「摩訶般若波羅蜜」に入る予定です。 これらとは別に、2、3年以内に一般公開の『眼蔵』講義ができないものかと思案中ですが、いまのところ予定は未定で、恐縮ながら、まだ確かなことは言える段階ではありません。 ただ、私はこの講義をはじめとして、全巻講読することをライフワークにしたいと考えており、出版も希望していて、すでにある社に打診しています。 この企画の狙いは、従来の『眼蔵』解釈のパターンを拙読で断ち切り、これまでとは違う読み方を提示することにあります。 その場合の「違う」読み方とは、以下の2点につい
時々相談者と面会するのですが、最近どうも増えていると思うのは、男女を問わず、30歳前後の世代で、何か過剰に他人の視線を気にするように見える人です。 先日は、30歳の男性歯科医という人と面談しました。彼は歯科医として実際に診療するようになって今年で3年。にもかかわらず、もう辞めてしまおうかと言うのです。 彼は大学を出て、某有名歯科医院に就職したのですが、1年目に患者に治療について、出来が悪いとかなり強い苦情を持ち込まれたのだそうです。さらに、この医院のオーナーで、業界では高名な院長からも叱責され、要するに自信喪失状態に陥ってしまいます。 その結果、同僚との関係も気まずくなり、彼はその医院を辞め、今はアルバイト的立場で別の医院で働いて1年経ったところだそうでいるのだそうです。 「あなた、今のクリニックで苦情は?」 「ありません」 「院長から何か怒られた?」 「全然」 「じゃ、なぜ辞めなくちゃい
今後の社会における決定的な問題は、環境問題、AIとバイオテクノロジーの劇的進展から生じるでしょう。この件に関しては、過去の記事でも何度か触れましたが、ここでもう一度整理して起きたいと思います。なお今回は、環境問題には触れず、AIとバイオテクノロジーの発達から想像される我々の「実存」の問題に絞ります。 1.AI・バイオテクノロジーと「労働」 私がここで問題とするのは、AIの進化が「人間の労働を奪う、人間が無用化する」、という「失業」問題ではありません。そうではなくて、「職業」がアイデンティティーの核心を締めていた「近代人」の実存の仕方が、構造的に変わらざるを得ないということです。 自分が何者であるかを、「職業」を拠りどころに意識していた実存は、次は何を拠りどころに「自己」を規定するのか。その規定のツールを誰がどう与えるのか。 同じような事態は、バイオテクノロジーの発展による、寿命の極端な延長
時として、「いま・ここ」に集中するのが禅の教えだとか、「いま・ここ・自己」に徹底するのが仏教だとかいう言い方がされますが、私はこれはあまりにナイーブだろうと思います。というのは、その「いま」「ここ」「自己」が具体的にどのような事態を言うのか、皆目わからないからです。 このような言い方がされるとき、「いま」は、均質に流れる川のような時間がそれ自体としてあって(絶対時間)、それを微分して析出された「点的時間」(瞬間)を漠然と考えているのでしょう。同じように、何もかもが位置づけられる巨大な箱の如き空間(絶対空間)があり、これを極限まで限定した局所的空間として「ここ」はイメージされていて、この座標的な時空間に、それ自体として存在する「自己」が位置づけられているのでしょう。 ところが、仏教においては、涅槃や悟りを目指して修行する以上、その「いま」「ここ」は未来のどこかに初めから開かれていて、「成仏」
ある人の病が重篤となり、回復の見込みと治療の手段がなくなって、延命の苦痛が耐え難い場合、苦痛を取り除く以外の治療行為を、彼が自らの意思で拒否したり、さらには死期を早める医学的行為を医師にさせる行為を、尊厳死や安楽死だとして、私はこれらを一概に否定するものではありません。 仏教は、基本的に自殺他殺、さらに死を賛美する行為を禁じていますから、安楽死や尊厳死を積極的に肯定する立場にないものの、初期経典には不治の病に侵された弟子の自殺を否定しないブッダの言辞があることを考えると、この件の判断も一方的に是非を決めかねるところです。 しかしながら、現在議論される尊厳死・安楽死が、本人の「意志」、すなわち「自己決定」と「自己責任」を担保できる清明な意識を前提とし、要件として強調するなら、私はそこにどうしても危惧を感じてしまいす。 「自己決定」「自己責任」を担保する意識は、近代以後の資本主義市場社会が要求
数年前に倫理関係の本を出し、昨年は同様のテーマで講演もし、最近は雑誌の「倫理」特集でインタビューを受けました。 すると、知人たちからしばしば「言ってることは面白い気がするんだが、いかんせん肝心なところがよくわからん」と言われてしまいました。 そこで、年の瀬にもう一度、倫理についての私の考えを述べておこうと思います。 同じものだと考えられがちですが、倫理と道徳は別物だと、私は考えます。 道徳はある共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えます。それに対して、倫理はその道徳の根拠を問うのです。 当の共同体において、「人を殺してはいけない」「困っている人は助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」「正直であるべきだ」などという道徳的判断について、なぜそうするのかを問うのが倫理です。換言すれば、道徳の個々の内容の当否が問題なのではありません。そうではなくて、
私の近著のカバー絵を提供して下さったのは、木下晋画伯です。画伯の絵を初めて見たときの衝撃は、今も忘れません。 雑誌での連載が始まる前、 「今度の連載の挿絵に、これを使いたいんです」 そう言って編集者が差し出した画集の表紙は、驚くべきリアリズムで描かれた合掌の鉛筆画でした。後日実物も見ましたが、絵は巨大なもので、しかもその細部にわたる描写は瞠目すべき、圧倒的な迫力でした。 画集に掲載されている絵は、さらに衝撃的でした。どうみても80歳以上に見えるご母堂のヌード、容貌がすっかり変わってしまったハンセン病の治癒者(画伯は自身でモデルを依頼したのだそうです)、ホームレスの老人、などなど。 どれもこれも、文字通り眼が釘付けになるような強度と密度を備えた表現です。 私が何よりも印象深く思ったのは、モデルの皮膚への異様なこだわりでした。老いと病と疲労とを暴き出すような皮膚の精密な描きぶりは、画家の見るこ
「君は今までも、思想には仏教と仏教以外しかない、なんていう極端な物言いをしていたが、最近は仏教各宗派の教えにも随分思い切ったことを言ったよな」 「浄土教系の教えなら一神教の方がよほど割り切れてスッキリするし、密教ならウパニシャッドやヴェーダ―ンタの思想で事足りるというヤツか?」 「そうだよ。僭越な言い分だと思うけどね」 「まあ、そのとおり。承知の上であえて言ったんだけどね」 「あえてとは?」 「バブル崩壊後の我が国のような社会の転換期に入ると、人々の存在不安が蔓延して、思想・宗教への需要が高まるのが通例だ」 「その需要に応えて、新思想や新宗教が続々と現れたりするな。」 「同時に、従来の思想・既存の宗教は、それまでの思想や集団体制が機能不全を来して、新しい展開への模索が始まるだろう」 「つまり、改革派の台頭だな」 「そう。そのとき、よく改革派で主張されるのが『原点回帰』という文句だ」 「教祖
お陰様にて、今年も恐山例大祭は無事終了しました。ご参拝いただきました皆様、お疲れさまでした。ありがとうございました。 期間中、たまさか受付のカウンターに坐っていると、突然、 「あらあ、やっぱり、いた、いたあ! 南さんとこのナオヤくんでしょ!!」 いきなり出家前の名前で呼ばれて、私はびっくり。目の前に80歳代と思しきご夫婦がニコニコしていました。 「びっくりしたでしょ!」 「はあ・・・・」 奥さんらしきご婦人、 「私、〇〇(高卒まで数年住んでいた家の地名)の、あなたの家の裏の、リンゴ畑の隣の家に住んでいた、カトウ(仮名)です」 (さすがにそれはわからんなあ・・・) 旦那さんのほうが 「本当にご立派になられて・・・」 「はあ、ありがとうございます、〇〇の・・・・」 この後、私の父母の昔話になったのですが、私にはまったくお二方の記憶がないのです。 この突然出現する、自分に記憶がまったくない人と、
6日、オウム真理教事件の首謀者であり教祖・麻原彰晃と、教団幹部6人の死刑が執行されました。おそらくは残りの死刑囚も今後執行されるのでしょう。 この事件については、事件以来ずっと私自身にこだわりがあり、著書の中で何度か触れ、本ブログでも言及しています(「17年目の氷解」)。 今回、死刑執行にあたり、いま自分が考えていることを、書き止めておきたいと思います。 まず、教祖について。 私は、この事件の核心は、麻原の桁外れの権力欲だと思っています。 権力は、暴力と、それを正当化するイデオロギー、制度とで構成されます。 権力は剥き出しの暴力では成り立ちません。他者の支配を暴力だけで行うとすれば、常にその強度をめぐって闘争がやまず、支配は安定しません。暴力を維持し、それを無暗に行使せずに支配するには、暴力を管理しなければならず、その管理が正当であることを主張しなければばりません。イデオロギーを必要とする
仏教の中心概念である「縁起」を考えるとき、以下の5つの意味を区別しながら考えたほうがよいと思います。 1、「原因ー結果」関係 人間の思考規則としての因果律のことで、特に仏教的でもなく、仏教プロパーな概念でもありません。注意すべきは、それ自体が原理のごとく実在するのではなく、あくまで人間の基本的な思考方法だということです。 2、「十二支縁起」 これは「無明」から「老死」までの12項の因果連鎖で実存を説明するもので、上座部ではこれらを過去・現在・未来に配当していわば胎生学的・実体的に理解(原因が結果を「引き起こす」)しますが、私は実存そのものの構造分析モデルだと考えます。ちなみに、私は「無明」を言語だと考えています。 3、「因果の道理」 因果律を方法概念ではなく実体的な存在原理と考えて、「輪廻」や「業」の説明に適応するものです。原因・結果の両方に善悪・苦楽を絡めることで、一種の恫喝的論理を構成
いわゆる初期経典といわれるものの中には、「え?」と面食らうような内容のものがあります。 たとえば、『相応部』に出て来る「家長チッタ」と呼ばれる在家の人物は、仏教で言う「四禅」という瞑想の最高位、「第四禅」にまで至ります。 この「第四禅」とは、ゴータマ・ブッダがこの禅定からニルヴァーナに入ったとされる境地ですが、するとこのチッタもニルヴァーナに入ったのでしょうか? それを証拠立てるように、家長チッタは、自分がブッダより先に逝去すれば、ブッダが次のように予言するだろう告げます。 「それによって家長チッタが再びこの世に戻ってくるような繫縛は存在しない」 すると聞いていた外道の修行者が 「白衣を纏う在家者が、このような人間の理法を超えた、知識と見解における真の聖者の卓越した境地である安住に到達し得ると言う」 と述べ、チッタを賞賛します。 この記述は、いかにも在家者チッタが逝去にあたりニルヴァーナに
子供のころに、非常に大きい精神的ダメージを受けた人がいました。そのダメージは、幼い心では消化し切れないものだったので、彼はそのダメージそのものを封印します。 すなわち、「もうすんだこと、もう気にしない」と自分に暗示をかけ続け、他人に対しては常に明るく振る舞い、自分の中の暗さと影を外部に一切見えないように努力したのです。 しかし、この無理な心理的プレシャーは、ついに心身にはけ口としての様々な症状を引き起こしました。 不眠、抑鬱、自傷、過呼吸エトセトラ。 その後、彼は様々な医療機関やカウンセラーのもとに通いましたが、一向に状態は改善しません。切羽詰まって、当てにしていたわけでもなく、ある寺の住職を訪ねてみました。 すると、住職は彼にこう言いました。 「あなたは、その一番つらい経験を、一番わかってほしいと思う人に打ち明けたこととがありますか?」 「今更そんなことをしても無駄です」 「違います。相
「あなた、今年還暦でしょ」 「そうだよ」 「だったら、もう『老師』って言われるでしょ」 「うん。40代で呼ばれた時は、『オレが老人に見えるか』って若い坊さんに文句言ったが、最近はあきらめてる」 「だったら、もう少し、らしくしなさいよ」 「老師っぽく?」 「そう。もうちょっと話し方を穏やかにするとか、立ち居振る舞いに威厳があるようにとか」 「確かにさア、アナタ変わりませんねえ、いつまでも昔と同じで若いですねってのは、もう誉め言葉と思っちゃまずいよな。苦労が身に染みない軽薄男みたいで」 「でしょう?」 「でもさあ、ぼく、昔から『らしく』がダメなの。いつもソレ、言われてたの。子供のときに『子供らしくない』、学生の時に『学生らしくない』、就職したら『社会人らしくない』。ついに坊さんになったら、また『坊さんらしくない』ってさ」 「まさにはみ出し者だな」 「そう。で、そのうち気がついた。『らしく』はこ
若いころからずっと、仕事一筋で頑張ってきた人がいました。そしてその努力は、周囲の評価するところとなり、会社の中で相応の地位を得て、めでたく定年を迎え、引退となりました。 しばらくは悠々自適、自分の時間を好きなように使える毎日を謳歌していたのですが、あるとき突然、かなり深刻な不眠症に悩まされるようになりました。 その人は、まだ仕事をしていた時代にも一度不眠症にかかったことがあり、このときは過労が原因だろうと自分も思い、医師にもそう診断されて、薬を処方されるなどして、全快したそうです。 ところが、今度はまったく突然で、どうしてそうなったのか、思い当たるフシもありません。医者に行っても原因らしい原因が無く、ただ睡眠薬を処方されるばかりで、一向によくなりません。 医者をあれこれ変えてみたものの、症状は改善せず、思いあまった彼は、親しくしていた親戚に相談すると、その親戚はある寺に連れていき、住職に引
このところ立て続けに、オウム真理教事件で長年指名手配された容疑者が捕まったり、捜索されたりという事態になっています。 実は、私はオウム事件に強いこだわりとトラウマを今に至るまで持ち続けてきました。それというのも、これまでまんざら自分がオウムと無縁ではなかったからです。 1984年といえば、私が出家した年ですが、オウム真理教の前身、「オウム神仙の会」が麻原によって設立されたのもこの年のはずです。 ですが、それ以前に、彼は宗教的な活動を始めていたはずで、私が後に思い出したは、千葉県の松戸で、ヨガグループのような活動をやっていたのが、当時の麻原ではないかということです。 私はまだ出家する前でしたが、千葉在住の友人に「変わったヤツが面白いことをやっている」と誘われて、見に行ったことがあるのです。あからさまに胡散臭かったので、早々に退散してきましたが、狭いビルのような、アパートのような一室に、結構な
ゴータマ・ブッダの生涯については、初期経典に言及する文章が散在してます。また、後代には伝記的経典も作成されました。 その中から古来、特に重要な出来事を四つ選んで「四大事」と言います。その四つとは、誕生、成道(悟りを開く)、初転法輪(最初の説法)、涅槃(入滅、逝去)です。この四つを誰が「大事」と決めたのか知りませんが、私には個人的な不満があります。 たとえば、どうして出家が入ってないのか不思議です。我々にしてみれば、出家したゴータマ・シッダールタに意味があるのであって、ただのシッダールタの誕生などは、どうでもよいことです。 それに初転法輪を言うなら、それを可能にした梵天勧請(梵天による説法の要請)も重要でしょう。 そこで、これらの仏伝のエピソードについて、日ごろ私がつらつら考えていることを書いてみようと思います。 〇誕生 これについては、要するに、彼は大変結構な生まれと育ちで、十分な教育を受
年末に鬱陶しい話ですみません。ご海容ください。 人並み以上に道徳的とは到底思えない政治家が決め、誰でもそうであるように、道徳的かどうかは時と場合と人による教員が、学校で教科として「道徳」を教え、しかもそれを成績のごとく評価するという、およそ馬鹿げたことをするくらいなら、ぜひ試みてほしいことがあります。 それは、いわば「生死」科を義務教育にすることです。つまり、家族をつくり、次世代を担う子供を持ち、彼らを育てていくこと。そして、ついに自分や家族が老いて死んでいくとはどういうことか ーーー 自分自身についても他人についても、それをどう考え、どう扱っていくかを、実地に学ぶのです。 私は、時々、面会希望の人たちと話していて、この人はどうしてこれほど親との関係で苦労しなけれいけないのかと、気の毒になることがあります。また、世上では児童虐待の報道が絶えず、どうみても親にならない方がよかった思う人物を目
依頼されて、何らかの思いのある方と面談することがあるのですが、そういう時に、特に若い人からしばしば言われるのが、 「そうです、そうなんです、それが言いたかったんです」とか、 「どうして私の気持ちがわかるんですか?」とか、 「あなたに言われて、やっと自分の気持ちがわかりました」などなど・・・。 実を言うと、私は相手の気持ちがわかっているのではありません。だって、他人ですから。想像しているだけです。想像して、相手の言いたいことはこんなことかな、と思うわけです。 こういう相手と話しているとわかってくるのは、自分の気持ちを他人に語る基本的な言葉の力が不足していることです。だから、こちらが想像して、こんなことを言いたいんだろうなと、必要そうな言葉を渡してやると、まさにその言葉が相手の気持ちの輪郭をはっきりさせるわけです。 すると、こちらは言葉の補助をしただけなのに、そういう言葉を提供できるのは、自分
仏教で言う「因果」(原因ー結果関係、因果律)は、それ自体が実在する、たとえば「宇宙の原理」ごときものではありません。要は、明確な言語と意識を持つ実存、すなわち主として人間が「考える」時に使用する最も重要な方法、とはいえ、所詮は道具にすぎません。 まず第一に、「考える」実存とは別に、因果がそれ自体として存在しないことについて。 そもそも、「結果」と「認定」される事象が起きてから、遡って「原因」を「発見」するのだから、「考える」人間がこの世にいなければ、因果は存在のしようがありません。 第二に、因果が人間にとって最も重要な「考える」方法である事実。 因果を使用しないかぎり、我々は「権利」と「責任」の概念を持ちようがなく、目的を定め、経験を反省し、今なすべきことを決断することもできません。すなわち、因果という道具なしに人間は「主体性」を構築できず、一貫したアイデンティティーを持つ「自己」を設定で
私は以前、倫理に関する本を書きました。無常だの無我だのを標榜する仏教は、善悪判断の絶対的な根拠を提供できない事情を論じ、自分の考え方を提起してみたのです。 ただ、巷では、割と簡単にこの問題に結論を出すアイデアを紹介する例が目立ちます。 例えば、仏教では修行を促進するものが善で、それを妨げるものが悪なのだ、という説です。 これは、教団内部では矛盾なく通用しますが、教団は常にそれより大きな共同体(社会)の中にあり、しばしば倫理問題は教団と社会を跨ぎます。すると単純な話では通用しなくなるでしょう。 仮に対抗勢力を虐殺したり政敵を恣意的に処刑するような「非道な独裁者」がいたとして、彼が仏教教団ないし修行者個人に対して、「自分に服従すれば手厚く保護するが、従わなければ弾圧する」と言い出したら(これまでもあり、これからもあり得るケース)、言われた側はどう態度を決めるのでしょう。 「保護」が「修行を促進
お寺に行ってご本尊を前にして、どうしていいかわからないというあなたのお話を、とても興味深く、また共感してうかがいました。 お説教を聞きたくてお寺に行ったり、坐禅を習いに住職を訪ねなどした折に、「まずは、ご本尊にお参りを」と言われても、自分はその本尊とどう向き合ったらよいかわからない。それが本当のお釈迦様や観音様に思えるわけでもなく、芸術として感動するほど仏像彫刻に興味もない。そもそもただの木の塊を「拝む」気持ちがわからないと、あなたのお話はまことに正直でした。 実を言えば、私もまったく同じだったのです。出家して修行道場に入門してから、私はあちこちに信仰と礼拝の対象として祀られる仏菩薩を、本当にお釈迦様や道元禅師と思っていたわけでもなく、礼拝のたびに信仰の念(私は今もそれがどういうものかわかりません)を新たにしていたわけでもありません。ただ道場の儀礼と修行の規範に従い、ルーティンワークとして
「一度訊いてみたかったんだが、君はハイデガーをどう思う?」 「お世話になった」 「あはははは。なるほどね」 「一方に『存在と時間』があり、他方に『正法眼蔵』「有時」の巻があるんだから、何か言いたくなる気持ちはわかるがな」 「どんな風に読んだ?」 「最初は高校生の時。『存在と時間』をクラスメートが読んでいて、流し目で『知っているか?』と訊かれ、つい見栄を張って『知ってる』と言ってしまい、読む羽目になった」 「じゃ、『眼蔵』を初めて読んだのと同じころなのか?」 「そう。1年くらいの差しかない。でも、印象は強烈だったな。両方とも、まるで、皆目わからない。しかし、自分にとって決定的に大事なことが書いてあることだけ、わかる。無理した後遺症は大きかった。これをきっかけにおっかなびっくり他の哲学書にも手を出し始めたのだが、最初の一冊のダメージはケタが違ったよ。」 「その後は?」 「大学に入ってから1度、
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『blog.goo.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く