法隆寺は聖徳太子によって創建された寺院であり、聖徳太子建立七大寺にも数えられています。 しかし、正史である『日本書紀』には創建記録が無く、太子が存命中には「推古14年(606)7月、聖徳太子が3日間勝鬘経を講讃した後、その同年に斑鳩寺(法隆寺)にそれを納めた」という記録のみしか記されていません。 また、現在では金堂薬師如来像光背銘や最古の聖徳太子伝記である『上宮聖徳法王帝説』の記述から、創建年は推古15年(607)に創建されたとされていますが、『日本書紀』の記述と比較すると ややズレが生じます。 また、『日本書紀』には「天智8年(669)に斑鳩寺(法隆寺)で火災があり、その翌年(670)には一屋も残さず尽く焼けた」と記されています。そのため、現在の法隆寺は聖徳太子の死後に再建されたという説も根強くあります。 そのほか、伽藍様式や収蔵されている仏像に関しても謎が多く、それについても様々な説が