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大谷翔平
d.hatena.ne.jp/kasawo
自分の子はみんな可愛いと信じていた。あまりに強く信じていたので内面においてもその他の感情をつぶやくことがなかった。子どもはみんな可愛いのだと、それだけを言語化して、それを「思っていること」にしていた。世話だってちゃんとした。食事も作った。共働きだから四六時中一緒にいたのではないけれど、夫も充分すぎるくらい子育てをしてくれた。不足なんかなかった。彼女はそう思う。 子どもはいつまでも子どもだという親もいるけれども、彼女はそのせりふを理解することができない。二十歳になった息子はもう子ではない。そこいらの若い男だ。ろくに口も利かないし腕力だって自分よりずっと強いだろう。だから距離を感じるのは変なことではない。彼女はそのように思う。上の子とはちがう。上の子は女の子だから。 彼女はそれこそ高校生の時分から、定年まで働くのだと決めていた。彼女は勉強ができたし、ピアノの才能だってあった。田舎の両親に無理を
僕の生家では、盆正月に親戚の集まりがある。僕はそのどちらかには行くことにしている。東京に出て三十年、いくつかの試行を経てできた習慣である。行きたくて行くのではない。後ろめたいから行くのである。 両親は僕を適切に養育したと思う。弟とも悪くない仲だと思う。親戚の人々も(少なくとも露骨に加害的なふるまいをしないという意味において)、良い人たちだと思う。そして、それらとは関係なく、僕は他人といるのが好きではない。 僕の言う「他人」は僕以外のすべての人間をさす。 会議室の隣の椅子に人が座っている状態がわずかに苦痛である。電車に乗らずに済むことを優先して住居を決めている。個室に単独でいる状態がもっとも息がしやすい。 十年単位で馴れた相手であれば、さらにそれが頻繁でないならば、半日程度一緒にいることに支障はない。両親や弟、亡くなった祖父母、それから少数の友人たちがこのカテゴリに入る。それ以外の人間との同
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