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ストIV | 「当て投げハメ」というのは、スト2というゲームの欠陥だった。その証拠に、スト2以降のゲームにおいては「当て投げハメ」は排除されている。スト2では、ガード硬直の間にレバーを上に入れていても、ジャンプする前に投げられたが、それ以後のゲームでは、レバーを上に入力していれば、ジャンプして相手の投げを回避する事が出来る。あるいは、ボタンを連打していれば、攻撃が出て、相手の投げに一方的に打ち勝つ事が出来る。スト2というのは対戦格闘というジャンルの最初の1本であったがために、制作者側にもハメを排除するノウハウが無く、明らかな欠陥とでも言うべき「ハメ」が完全に排除されないままで、発売されてしまったのである。「スト2」という言葉が、あくまで初代とか、無印とか、Nとかそういう言葉でくくられる『ストII』だけを指しているのか、それとも『II´』から『ハパII』までをも含んで「スト2」と呼んでいるの
筒井康隆 | 「筒井康隆先生」「筒井先生」などと先生づけで呼んでいる人はにわか。少なくとも愛読者ではないのだろう。筒井康隆が自分のことを「先生」と呼ばれるのを嫌っているということを知らないのだ。「もしもし、筒井先生のお宅ですか」「こちら、筒井です」「筒井康隆先生のお宅ですか」「筒井康隆です」「あのう、筒井康隆先生いらっしゃいますか」「はい。筒井康隆です」「ええと。筒井康隆先生ですか」「筒井康隆です」「あ。失礼しました」 これだけの問答を交すことによってやっとぼくが、先生と呼ばれるのを嫌っていることを感じてもらえたわけである。 『腹立半分日記』太字は原文では傍点 こんなエッセイを読めば、馬鹿にする意図でもない限り「先生」をつけて呼ぶ気にはならないはずだ。ウェブ上のファンの記述にもあった。筒井康隆用語辞典(仮) - [さ行] 先生 〔せんせー〕 筒井氏には、禁句。名前の下に付けると非常に気分
本, 筒井康隆, キッキッキッ | 過去問集から長文が消える 著作権で引用できず - ITmedia News -問題集から長文が消える 著作権で引用できず -Yahoo!ニュース問題集から長文が消える 著作権で引用できず - MSN産経ニュース リンク先に書いてあることは全部おなじだった。それはさておき。 教育業界では「教育目的」という大義名分のもとで無許諾転載が慣例化していたが、著作権保護意識の高まりから、大手予備校や出版社などが相次いで提訴されており、引用を自粛する傾向も目立ち始めている。(小田博士) 問題文の掲載を拒否する作家を「金の亡者め」などと非難する意見をちらほら見かけるのだが、作家が自作品の試験問題への掲載を拒否する理由は、決してお金の問題だけではないであろうと私は思う。 筒井康隆は昔からこの問題について熱心だったといえる。兵庫県下一斉実力試験に自身の文章が無断で転載されて
映画, 攻殻機動隊, マンガ | 『攻殻機動隊』 士郎正宗『攻殻機動隊』P127 講談社↑『イノセンス』の下敷きとなったエピソード、「ROBOT RONDO」から。トグサは利き手である右手で拳銃を持ち、トグサから見て右にある建造物に体を隠して威嚇射撃しています。今、気づいたんですが、足元を敵の弾がかすめてますね。ちなみに拳銃はマテバではありません。余談ですが原作のトグサは「俺はM2007(マテバ)が好きなの!」と言及はしたけれど、素子にとがめられたために実際にマテバを使用したことはないはず。たぶんですが。 同上 ↑前から見たところ。右手で銃を持っているのに、右側の遮蔽物に頼るのは、やっぱり撃ちづらそうですね。とはいえちょっと格好いい。香港映画の横撃ちや2丁拳銃のクロス撃ちとおなじで、撃ちづらそうに撃つのは格好いい気がする。 (追記:右手側に遮蔽物があって右手で銃をかまえるバトーの原作の描写
映画, 押井守, 気づき | 『イノセンス』で格好いいなあと思っていたのが、最後のアクションシーンでバトーがバババ、バババと三点バーストで発砲していたところ。あれは銃自体についている三点バースト機能を利用したのではなく、フルオートのまま発砲し適度なタイミングで引き金から指をはなすという、指きりバーストとも呼ばれる方法であるらしい。映画のアクションシーンでの発砲というと、(この『イノセンス』でもヤクザの事務所に殴りこんだときのように)フルオートと相場が決まっているような気がするのだが、そこをバースト射撃でいくのが渋いなあ格好いいなあと思っていたのだけど、よく考えてみると、バトーのような最新鋭の戦闘サイボーグに、三点バースト射撃を使うメリットがあるのか疑問になった。 バースト射撃のメリットについて検索してみるとフルオートと比べて弾が散らないので命中率が高いセミオートの単発撃ちよりは適度に弾が散
映画, 気づき, 押井守 | 本田透が再三にわたって引用したおかげで押井守熱が再燃。 「シーザーを理解するためにシーザーである必要は無い」(One need not have been Caesar in order to understand Caesar)というヨーロッパのことわざが、『イノセンス』に4回でてきます。きっと大事なことなのでしょう。荒巻:(バトーの様子は)どうだ?(中略)バトーの話だ。(パートナーの)心理的傾向を相互にチェックするのは通常の対応だ。 トグサ:と言われても‥‥俺はサイボーグでも電脳医師でもありませんからね。 荒巻:シーザーを理解するためにシーザーである必要は無い。バトー:何の話だった。 トグサ:シーザーを理解するためにシーザーである必要は無いそうだ。 バトー:そいつはもっともだ。世界は偉人たちの水準で生きるわけにゃいかねえからな。バトー:ヤクザの事務所に行く
本, 本田透, 気づき | この本におさめられた手塚治虫論は、「永遠に救われない醜男だが、そのルサンチマンを昇華したがゆえに偉大な創作家として生きた猿田(我王)こそ手塚治虫の分身である」という見方を中心にして描かれます。 猿田は、「子々孫々まで醜い鼻に生まれつく」という呪いを、火の鳥によってかけられています。しかし、猿田が子孫を残さないまま死んでしまっている話もあるのにもかかわらず、猿田の末裔が登場する。このことを著者は「たまたま運悪く猿田の呪いが発現してしまったデカ鼻の喪男なのだろう」と説明します。そして、 オレもまた、猿田一族の仲間入りを夢見ることで、かろうじて今まで生きてこられた人間の一人なのだ。『世界の電波男』と、語ります。 これを読んで、ハッと気づきました。「そうか!本田透は、『自分もキモメン喪男として悩み苦しんでいるうちに、いつか手塚治虫になれるかもしれない』という『願望充足の
インターネット, はてな | はてなツールバーで言及すると、トラックバックを送信してまうのか?リンク貼ってくれるだけだと思ってた‥‥。 先のエントリー、「『ニンテンドーwi-fiコネクションは糞。Xbox Live最高!』という層と、ゲームでコミュニケーションしたくない層」が、文中で言及したブログにトラックバックを送ってしまっています。そんなつもり、なかったのに…これは死にてえ。PVをこれ以上ふやしたくないのに‥‥。しばらくプライベートモードにするか?あああ‥‥今夜は眠れないぞ。 あのエントリーはまとまりがなくて散漫で、今ひとつだなと自分でも思っていたし、そもそも「彼らと私、考え方は正反対。よって議論しても意味がない」ってテーマで議論をふっかけてどうすんだ。 トラックバック送ってしまったみなさん、不快になられたら、ごめんなさい。 それにしても、はてなにいると、なんか他人のブログに干渉するの
ゲーム, ゲーセン, キッキッキッ | オンラインゲームのシステムについてXbox360は開放的で進んでいるが、DSとWiiは閉鎖的で遅れている、みたいな論調をちらほら見かけるのですが、開放的と閉鎖的という部分は納得するけど、進んでいるとか遅れているという話には共感できないんですよね‥‥。 私は360は持ってないし、DSとWiiは持っていても、ほとんどwi-fi対戦してませんけれんども。(Xbox Liveは)まさにSNSである。日本なら「モバゲータウン」的な位置づけということもできる。(中略)「Web2.0」的なネット特有の力というのは、マスメディアの「伝播性」と、通信の「双方向性」の両方を兼ね備えた、中間領域にある「マイクロメディア」という、これまで全く存在しなかったコミュニケーションの仕方だと思っている。だから、いわゆる「ネット家電」として見ると、Xboxはそれをうまく取り込んだ、ス
本, 押井守, マンガ, 映画 | 手塚治虫『人間関係が希薄な人は漫画は描けない。漫画とは読者との会話だからだ』 宮崎駿『ロクに人生経験も無いオタクを雇うつもりはない。火を表現するには火に触れないと駄目だ』 庵野秀明『アニメ・漫画に依存するのは止めて外に出て欲しい。あれはただの絵だ』 富野由悠季『オタクは日常会話が出来ない。アニメ作るならアニメ見るな』 藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。家の冷蔵庫を開けてご覧
本, 筒井康隆 | 三島由紀夫に対する影響三島が生田長江訳の『死の勝利』を下敷きに『岬にての物語』(1946年)を書いたことは夙に知られている[1]。三島は池田弘太郎と共に『聖セバスチァンの殉教』を邦訳したこともある。これら作品上の関係のみにとどまらず、楯の会の制服や行動にダンヌンツィオの影響を見る者は数多い。特に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーから三島がおこなったアジ演説は、フィウーメ占拠時のダンヌンツィオが取った行動の拙劣な模倣であるとたびたび指摘されている[1]。1989年に筒井康隆が書いた『ダンヌンツィオに夢中』は、これらの指摘に基づいている。Wikipedia ガブリエーレ・ダンヌンツィオ太字は筆者 この三島由紀夫論『ダンヌンツィオに夢中』のヤマが三島の演説なんですが、筒井康隆が三島の演説の下手さを表現するためにソノシートの録音を「聴取した通りに」書き起こしていて、これがほん
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