エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
アナキスト民俗学 尊王の官僚・柳田国男(すが秀実、木藤亮太)その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
アナキスト民俗学 尊王の官僚・柳田国男(すが秀実、木藤亮太)その2 - KAZUO NAKAJIMA 間奏
おそらく、本書において、最も疑問や批判を呼ぶのは、戦前から戦後の転換期に、フロイト「トーテムとタ... おそらく、本書において、最も疑問や批判を呼ぶのは、戦前から戦後の転換期に、フロイト「トーテムとタブー」のごとき「王殺し」を見ようとするくだり(第三章)だろう。もちろん、この「王殺し」は、天皇主権から国民主権への移行に「革命」を見るという、いわゆる「八・一五革命」説に、「もし整合性があるとしたら」、これがあったと見なすほかないという、あくまで思考実験であり作業仮説である。 だが、それにもまして重要なのは、このように「八・一五」に「王殺し」を見ることで、かつてあった一度目の「王殺し」である「大逆」事件(1910年)を、必然的に視界へと浮上させてしまうことだ。 おそらく、本書が「あえて」八・一五に「王殺し」を見ようとするねらいもここにある。本書を読んで思ったのは、戦後(憲法)の「象徴」化とは、一度目の「王殺し」によって露呈した共同体の、いや近代世界全体の「穴」を、大正期から戦前、戦後にかけて、共