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第72回 御木本幸吉(その一)足芸を披露して英国人に大評判。うどん屋の息子から「真珠王」へ―(福田 和也) @gendai_biz
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第72回 御木本幸吉(その一)足芸を披露して英国人に大評判。うどん屋の息子から「真珠王」へ―(福田 和也) @gendai_biz
真珠王として、一世を風靡した御木本幸吉の実家は、阿波幸と云う屋号で、うどんの製造と販売を家業とし... 真珠王として、一世を風靡した御木本幸吉の実家は、阿波幸と云う屋号で、うどんの製造と販売を家業としていた。 幸吉の祖父である吉蔵は、「うしろに目のある男」と云われたほど、商才にめぐまれていたという。 家業のうどん製造だけでなく、鳥羽港を足場に大伝馬船十艘と五棟の蔵を持っていた。 青物から薪炭まで手広く商いをひろげて、鳥羽藩主稲垣家の御用達になったという。 ところが幸吉の父である音吉は、幕末から明治にかけての変動をのりきれなかったのである。 祖父が残した、五棟の蔵も手放してしまった。 ただし音吉は、商才には乏しかったが、機械や工具の工夫、改良には目はしが利いていた。 重労働だった石臼の粉挽きを改良し、明治九年に新しい粉挽きを発明し、業界に大きく貢献したとして、三重県庁から賞金として百円を授与されている。 明治八年。 イギリスの測量船が、鳥羽に入港した。 鳥羽の商人たちは、商品を小舟に積んで測量