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どうやら、外交における「政権担当能力」というのは「米国(の特定政府)の意に沿わぬことはしてはならぬ」を意味するらしい。 たいした能力である。 しかし、そのような前提ならば「能力」などは必要ない。 どんなに無能力でも「これまでと同じように言われることに従うこと」位はできるだろう。 「能力」が必要とされるのは 一見対立する「困難」な現状があり、そこから妥当な結果を引き出そうという時だ。 少なくとも、これまでの政権担当者はそのような困難を避けていただけなのだから、「政権担当能力」があったわけではない。 「政権担当能力」を問われる事を避けることで「政権」を担当(維持)していたと描写する方が似合っている。 沖縄の基地問題。 グアムへの移転問題。 MD戦略問題。 莫大な借金を抱えているから社会保障費を削り、消費税を上げたいといいながら、「安全保障」の「錦の御旗」を振りかざせば、なんら費用対効果を省みる
コムスンの不正請求問題も少し落ち着きを取り戻しつつあるようだ。 落ち着いたというよりも、関心のピークが過ぎたという感じのほうが妥当かもしれない。 私も母の介護をしている身なので介護問題というのは身近なものなのだけれど、これは、毎日繰り返される日常の出来事で、コムスンの問題が浮上しても、それが一段落してもコムスンを利用していない事もあってそれが劇的に変わるわけでもない。 折口会長が「悪者」として糾弾されても、コムスンが他に譲渡されても、それらを引き起こす介護制度の根本的な問題に政府が何か手を打つような事が無ければあまり変わらない。(その気配も感じられないし・・・) かといって関心が無いなんて事でもない。 ただ、マスメディアから流れてくる情報の「関心」との間にズレは感じる。 それらを見ているときは、自分達のことというよりも社会問題として、公的な問題として見ているようなところがある。 このような
法も最初からそこにあるものではなく、永久に法が変らない訳でもない。 立法もあれば、改正や廃止もある。 現在の法が無批判に肯定されなければならないならば立法も改正も廃止も必要は無い。 それが有るという事は参照される「何か」が有るという事だと思う。 「何か」とは例えば倫理であったり宗教であったり時として経験や生活観だったりするのだと思う。 法やルールが「守るべきもの」として信頼され維持できるのはこれら支えるベースがあるからだと思う。 ベースになっている倫理なり宗教なり明文化されない規範がそこには横たわっていると思う。 今は治安の悪いところであってもかつては法が当然のように守られ治安がよかったところもあっただろう。 逆にかつては治安が悪かったところでも、今では法が守られ治安が回復されたというところもあるだろう。 法があったとしても、それが「あるから」治安・秩序が保たれているということでもない。
感覚的な私は良く数学屋のめがねの秀さんのblogで論理についての概念を勉強させてもらっているのだけれど、その秀さんが珍しく感情のバイアスの掛かった記事を書かれていて、さらに、これもまた良くお邪魔する瀬戸さんのblogも多少関わっていたので気を揉みながら推移を見守っていた。 その後、秀さんは自らの誤りを認め、今もその誤りについて考察を続けている。 その考察は秀さんのものでありそれはそれでまた参考にさせていただきたいが、私は私でその後、自分に照らし合わせてしばらく考えこんでいた。 そこでの題材はフェミニズムであったが、それは「偏見」「差別」の話でもあるのでその事について感じたことを書いてみたい。 自分が直接関係していないと感じている偏見・差別(例えば白人と黒人の間に見られるものなど)に関しては気がつく事も理性的でいることもそれほど難しい事ではない。 その付属的なものとして、例えばアメリカ人が時
「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」のニュース 3年毎に実施しているとの事 内閣府のHPには、まだこの世論調査の結果は掲載されていないようだ。 とりあえず、前回までの調査方法・内容・結果は掲載されていた。 前回はイラク派遣前なのでその前後で意識の違いは出るだろうなと思う。 調査方法、有効回答率あたりは確認しておいた方が良い。 とりあえず、ここでは「単純任意抽出法(無作為抽出)」が確保されていることを前提に見てみたい。 結果には性差、年代差など色々な特徴が見られる。 やはり目に付くのは「国を守るという気持ちについての教育」の項目 必要だとする回答の増加率は前回5.7%で、今回10.1%上昇しているということで、この6年の間に15.8%上昇したことになる。 このあたりが政府が教育基本法改正で愛国心教育を強気に進める背景になっているのかもしれない。 今回、どの年齢層がこの急激な上昇を支えているの
私たちは複合社会にあってそれにウンザリしているのかもしれない。 一つの視座(レイヤー)から捉えた世界で良いと思った結論をいざ実行してみると、思わぬ結果が待ち受け、それに打ちのめされる事でもう一つの視座(レイヤーが確かにあることを思い知らされるといった事は良くある。 その視座を考慮に入れてまたその新たな世界で良いと思った結論を実行してみてもまた同じ。 何かを立てれば何かが立たず,全てを立てようとすれば身動きができなくなってしまう。 だからどうしてもシンプルで分かりやすいもの,明確なものに惹かれてしまう。 物事を分かりやすくするには他のレイヤーを見ない事だ。 そこにはほぼ明確な正解がある可能性は高い。 そして,そのレイヤーにとどまる限り誰もそれを否定できない。 論理的に「自明」とする事も可能かもしれない。 迷わず行動する「だけ」ならばそれが良い。 レイヤー同士の互いの作用(関係性)が物事を複雑
射水市民病院で入院中の回復の見込みの無い患者の延命措置が中止され7人がなくなっていたというニュースがあった。 この出来事はまだどのような経緯で、外科部長が何を思ってこのような行為に及んだか、どこに違法性があるかが明らかではないのでこの出来事に特化して書くことは差しさわりがあるけれど、この出来事は私からそんなに遠い話ではないと思うので少し書いてみる。 私もそんな場面につい最近出会ったことがある。 介護している母が誤飲誤嚥性肺炎を引き起こし入院した際に最初に医師に確認されたのが、もしもの場合に「延命治療」を施すかどうかだった。 医師が言うには一度延命処置を選択したならば、それを途中で止める事は困難になるとのこと。 症状が現れ、家族(私)が異常だと気付き、救急車で運ばれ、めまぐるしく状況が変わる混乱の中にあって、その選択を迫られるまでの時間はそれほど長くない。 「生きてほしい」という思い、その逆
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