サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
iPhone 16
ikiss.hatenablog.com
整理整頓をしたくなる時というのは、外にあるモノが乱雑に置かれている状態が不快に感じた場合に多い。そのせいか、外にあるモノが一旦整理できてしまうと整理整頓ができたように感じてしまうことが多い。しかし、外にあるモノだけを整理しても、しばらくすると元の乱雑な状態に戻ってしまうことが多かった。そして、なぜそうなってしまうのかが今まで分からずにいた。 でも、最近になって外だけを整理して内側を整理してないことが原因かもしれないと感じるようになった。極端に言えば、目に見えるところだけ整理して整理できなかったモノを引き出しの中に放りこんでしまっても、他人の目からしたら整理したと見えるのかもしれない。しかし、内部は乱雑のままだから、少しでも何かを動かせばあふれたモノは外に出てしまうことになるだろう。 だから、もし本当に整理整頓をしたかったら、外よりも引き出しの中のような内側から整理することも必要かもしれない
気持ちが乗らないことを理由して断ることは、躊躇しやすいし勇気もいる。だからといって断ることをしなければ、どんどん周囲に振り回されていってしまう。それでも、気持ちが乗らないことを正直に打ち明けて断ったほうが、自分が一番楽になれるように今は感じている。というのも、数日前に自分の気持ちが乗らないことを理由に、相手からの誘いを断ったということがあったからだ。 先週、飲み会の中である人からあるスポーツをしないかと誘われた。その人とは初対面であったけれど、話を始めるなりすぐに誘ってきた。いかにそのスポーツが素晴らしいということや、そのスポーツをやることで出会いが広がるというようなメリットばかりを、一方的に話してきた。最初は気楽に聞いてきたけれど、あまりにも話が一方的なので、その半ば強引な誘いに反発したくなる気持ちが強くなっていった。 その人の話を聞いていて、そのスポーツ自体が嫌になることはなかった。た
僕はコンビニに行ってもいろいろと買うことはほとんどなく、缶コーヒーかペットボトル飲料を1本だけ買うことが多い。そして、買った飲みものはすぐに車のドリンクホルダーに置いてすぐに飲みはじめる。そのため、飲みものを1本だけ買ったときには、レジ袋に入れてもらわずにシールを貼ってもらうことにしている。飲み物を手で直接持つことに不便を感じないのと、レジ袋が邪魔になってしまうからだ。 ところが、袋を断るのを言うタイミングというのがなかなか難しい。例え缶コーヒー1本だけ手に取ってレジに向かっても、対応の仕方が店員さんによってまちまちなのだ。「袋に入れますか?」と先に聞いてくれる店員さんもいれば、袋にいれるかどうか確認しないで袋に入れる店員さんもいる。さらに確認でも、バーコードに当てる前に確認する店員さんもいれば、お釣りをもらった後に確認する店員さんもいる。 それもあって、僕は袋を断るタイミングをつい早めに
僕は2013年の9月からはてなブログを続けている。こうして今も更新し続けている理由の一つには、ブログを楽しそうにやっている方々の存在があるからだと、最近は思うようになった。ブログを楽しそうにやっている方々のエントリを読むことで、「やっぱりブログをやるのは面白い」という気持ちを持ち続けることができた。だから、ブログをやることが嫌にならずに続けることができていると思う。 ブログを楽しそうにやっている方々のエントリは、内容が肯定的に書かれていて愚痴や批判がほとんどないものが多い。さらに、文章も優しい感じでまとめられているので、読んでいても気持ちがいい。そして、読み終わった後はブログが更新されたらまた読んでみたいという気持ちになるだけでなく、自分のブログもこうやって書きたいなという気持ちにもさせてくれる。 その一方で、それとは真逆のエントリを目にしてしまうことも時々ある。それらのエントリには、全体
僕は家から少し離れた駐車場に車をとめている。今日の夕方、車をとめて外へ出た途端に、道路にいた面識のない年配の男性から「ちょっと余計なことかもしれないけど」と声をかけられた。いきなり声をかけられたから僕はびっくりしたと同時に、車をとめる際に何か問題のある行動があったのかと思ってしまった。そして、僕は内心ドキドキしながら次の言葉を待った。 しかし、男性が次に言った言葉は「車の右のブレーキランプが消えてるよ」であった。その言葉を聞いて、僕は安心したと同時に拍子抜けしてしまった。そして、僕が「ありがとうございました」と言ったら、その男性は駐車場から離れていった。僕はその時、ブレーキランプが切れたことを面識のない人にも関わらず教えてくれたその人の行動力が素晴らしいと思っていた。 自分が使っている車のブレーキランプ切れは、自分で気づくことはできない。だから、ブレーキランプが切れたことを周囲のほうから言
先日、タンブラーを買った。目的は、部屋に居るときに水分をしっかり取るためだ。昔は一日中何も飲まなくても平気な時もあった。でも最近では、しばらく水を飲まないと体が疲れやすくなるように感じ始めた。だからと言って、こまめに水分をとるために部屋と冷蔵庫を往復するのも面倒だ。そこで、保冷機能があるタンブラーを手元に置くことで、水分をこまめにとるようにした。 そうやって飲み物を手が届く場所に置いたら、こまめに水を飲むようになってタンブラーの中はいつも空になった。不思議なことに、のどが渇いたと感じていなくても、自然とタンブラーを手に取って飲んでいた。逆に、今までのように手元に飲み物が無い場合は、わざわざ冷蔵庫に行ってまで水を飲むことはしなかった。だから、水分をこまめにとるためには、手の届く位置に飲み物があることが大切なのだと思う。 そう考えると、必要なものというのは近くに置いたほうがいいのだろう。手が届
はてなブログには読者機能があるので、いくつかのブログは読者登録をして読ませてもらっている。当然、ブログをやる目的や生活スタイルも人それぞれなので、ブログの更新ペースもまちまちだ。数日に一度のブログもあれば、中には毎日更新するだけでなく、一日に数回更新するブログもある。そして、更新頻度が高いブログからは元気さを感じることが多い。 しかし、継続して更新し続けるブログがある一方で、以前より更新のペースが落ちたり更新が止まってしまうブログもある。こうして購読しているブログの更新が止まってしまうのは、読者としてはやっぱり寂しい。その中でも読んでいて面白いエントリが多かったり長い時間購読していたブログだったほど、寂しさは強く感じてしまう。 特に、ここ最近は長い間読者になっていたブログの更新が止まってしまうことが多かった。そして、更新が止まったブログタイトルを見る度に、寂しさとブログを継続して更新するこ
「はてな」でブログを開設して、今日でちょうど2年になった。1周年の時もそうだったけど、ブログを開設した日というのは何か特別な日に感じてしまう。2年前に開設した時には、こうして2年も続けていることが全く想像できなかった。しかも更新を続けたまま無事に2周年を迎えることができたのだから、本当に嬉しい。 この2年間を振り返ってみると、自分が前々から思っていたことを1年目は多く書いていたと思う。それによって自分の内にあったものが出し切れたのか、2年目は何かを通して思ったことを多く書くようになった気がする。僕としては、2年間同じようにやってきたつもりだった。でも、長い時間の中ではやっぱり変化はしていたのだと思う。おそらく、そう感じることができるのも、継続することができたからなのかもしれない。 ただ、1年目よりは更新はペースが落ちてしまった。その原因の一つにはテーマを絞りすぎていたことがあったと思う。そ
PCでネットをする場合、よく見るサイトはブックマークをしている。ところが、ブックマークが増えてしまったことで最近は不便を感じるようになった。そのため、整理をすることで不便を解消することにした。見る頻度が高い順にサイトを並び替え、見る頻度が減ったサイトはフォルダにまとめるか削除した。その結果、より短時間で見たいサイトに行けるようになっただけでなく、見た目もすっきりしたように感じている。 時間が経過していくと、意識しているいないに関わらず考えや行動も多かれ少なかれ変わっていきやすい。そのために新たに使うものが出てくることもあれば、それまで頻繁に使っていたものが全く使わなくなることもある。持つものを必要最小限にしたとしても、時間の経過とともに不要なものは出てきてしまうものだと思う。だからこそ不便に感じたらそれをいいきっかけとして、整理していくことが必要なのかもしれない。 それに、整理をするという
数日前に、お腹まわりの筋肉の構造についてネット検索をしていた。そうしたら、「骨盤を立てて座る」という言葉を目にした。初めて見た言葉だったので、「骨盤を立てて座る」という言葉でネット検索をしてみた。検索した結果、骨盤を立てて座ることによって自然と背筋が伸びることで猫背が解消できるそうだ。それだけでなく、お腹に力が入ることによって出すぎたお腹を引っ込める効果もあるらしい。 猫背と出すぎたお腹に悩んでいた僕にとってはいい情報だったので、さっそく試しにやってみた。そうしたら、背筋が伸びるようになっただけでなく、他に何もしなくてもその姿勢が続けられるのだ。それに、背筋がまっすぐになったことで肩が開いたためか、肩が楽になったような感じががした。しかも、複雑なことをするわけでもないから、気軽にやれそうな気がする。軽い気持ちでやってみたが、効果は自分の予想以上だった。 しかし、その一方で歪みも感じるように
先日、「購読中のブログ」を一通り目を通していたら、ある人のブログ名がなかった。嫌な予感がしたので、試しにそのブログ名を検索にかけてエントリを見ようとしてみた。そうしたら「お探しのページは見つかりませんでした。」の画面がでた。つまり、そのブログは削除されていたのだ。そのブログはいろいろと考えさせてくれるような文章を書いていたので、こうして削除されたことはショックだった。 はてなブログを続けていると、このように購読していたブログが削除されてしまうことがある。あるいは、いつの間にか更新ペースが鈍っていっていつの間にか更新が止まってしまうこともある。これらのことに遭遇してしまうことは寂しいことだ。特にそのブログが僕にとって面白いものだったり多くの人が読んでいるような感じがしたものであるほど、その寂しさを強く感じてしまう。 そのようなことに遭遇する度に、改めてブログを続けることの難しさを痛感する。も
誰かと話をしていると、盛り上がることもあれば全く会話が進まないこともある。もしかしたら、その違いというのは「お互いが自分のことを話せているかどうか」ではないかと思う。そう思うようになったのは、最近会った人と会話が続いた理由を探ってみたら、お互いに自分のことを話していたことが共通していたからだった。 その一方で、僕の周りには自分のことを全く話さない人が一人いる。話をすると彼は最初から最後までスポーツ選手や芸能人のような第三者の話を一方的にする。たとえ僕が自分のことを話したとしても、彼は自分のことを話すことは無かった。そして、すぐに第三者の話に戻ってしまう。それもあってか彼の話には独自の意見やオチがほとんど無く、会話の結論も一般的なものになってしまうことが多かった。 別にスポーツ選手や芸能人の話が嫌いなわけではない。ただ、スポーツ選手や芸能人のような第三者の話というのは、内容がワンパターンだっ
世の中には自分の意見を言える人がいる一方で、なかなか自分の意見を言わない人もいる。僕も自分の意見を言わない人だった。でも、自分の意見があるのに言えなかったというよりも、そもそも自分の意見がなかったということも多かったような気がする。もちろん、「意見はない」が通らないことも多かったから、そういう時は、本心では思っていない当たり障りのないことを意見にしてやり過ごしていた。 もし、自分の意見を持ってないことが相手にわかってしまうと、「自分がない」「やる気がない」「無関心だ」というような良くない印象を受けやすい。以前は、そうやって自分が悪く見られるのが嫌だったから、自分の意見がないことを自分で認めることができなかった。だから、意見が持てない自分に嫌悪しただけでなく、「自分には意見がない」と簡単に言えてしまう人も嫌悪していた。 でも、様子や全体像が見えていなかったり、今の自分からはかけ離れすぎていて
現状維持というと、あまり悪い感じはしない。良くなっていないけれど悪くもなっていないということになるからだろう。しかし、その一方で「現状維持は悪いことだ」と書かれている文章を時々見かけることがある。おそらく、良くなっていないということは実は悪くなり始めているとも言えることで、現状維持を悪い意味でとらえるべきだということなのかもしれない。 でも、現状維持は決して簡単なことではないと思う。状況は刻々と変わるし、物事がいつも自分の思い通りになるとは限らない。そのために現状維持をするには、常に周囲の状況を観察しながらやり方を調整し続けることが必要になってくると思う。それでも、やり方が見つかればいいものの、見つからずに試行錯誤し続けてしまうことさえある。だから、実際には現状を維持するだけでも大変だと感じてしまう。 簡単には増えないものは、一定量を確保することさえもなかなか難しいような気がする。収入、仕
2月上旬に風邪をひいて以来、今日まで咳が止まらなかった。最初のうちは風邪が治ったらいずれ咳は止まるだろうと思っていた。でも、いつまで経っても咳が止まらなかったので、内科に今日行ってきた。主治医との問診やレントゲンと採血を行って診断してもらった結果、肺に炎症が残っていたということだった。どうりで咳が止まらないわけだ。 とりあえず投薬しながら経過を見ることになり、一週間後にまた来るように言われた。薬は抗生物質と咳止めと痰をうすめる薬を処方してもらった。抗生物質は朝食後、それ以外薬は毎食後に飲む生活を一週間続けていくことになった。結局、レントゲンや採血も含めての診察代と薬代とでなかなかの出費となってしまった。 それにしても、風邪をきっかけにここまでになってしまうとは。今回の件で、咳を軽く見ないこと、風邪はともすると他の病気のきっかけになってしまうことを痛感した。それと同時に、風邪をひかないように
今まで僕は、自分で何かをすることが苦手だった。でも、自分で何かをしたほうが精神的に満たされやすいと最近は感じるようになった。のどが渇いたら、誰かに水を持ってきてもらうよりも、自分から水の置いてあるところに行って自分で水をコップに注いで飲んだほうが、気持ちがスッキリしやすい気がする。 今までは、のどが渇いたら誰かが水を持ってきてくれることが多かった。しかし、それに慣れてしまって、いつの間にか「誰か水持ってきてくれないかな」ということばかり考えるようになってしまった。だから、水のあるところに自分から動くことをやらなくなってしまった。自分で動かなくても、きっとそのうちに誰かが水を持ってきてくれるはずだ、と思い続けてしまっていた。 でも、そのうちに誰も水を持ってきてくれなくなった。それだけでなく、自分で水のあるところに行くことさえできなかった。だから、ずっとのどは渇いたままで不快だった。そこで初め
誰かと会話していて話を聞く時には、自分に向けて言っているのかそれとも話している人が思ったり感じたりしたことをただ言っているだけなのかを判断することが大切だと、最近つくづく思う。そうでないと、言われたことに対して過剰な反応をしてしまって、ひいてはいざこざの原因になるかもしれないと思ったからだ。 今まで僕はその判断ができなかった。相手から「こうすればよかったのに」とか言われると、自分のやり方を否定されているように受け取ってしまった。もしかしたら、相手からしたらそんなつもりではなかったのに。そのために、相手に悪態をついてしまって関係がぎくしゃくしてしまうことが多かった。そのうちに、他人に何か言われることに怯えるようになってしまって、人の話を聞くのも嫌になってしまった。 でも、よくよく考えてみたら、相手は「私はこうしたほうがいいと思った」と言いたかっただけで、僕のやったことにダメ出しをするつもりは
「自分のことを大切にしなさい」ということをよく耳にしたり聞いたりする。他人のことを気にとられてしまって、自分のことをおろそかにしてしまうのは確かに良くないことだ。しかしその一方で、まるで他人のことなど知ったことはないと言わんばかりに自分勝手にふるまっている人も存在している。 でも、そうやって自分勝手にふるまっている人というのは、すごく不安を抱えているのではないだろうか。世の中は自分の思い通りになければならない。それに自分の思い通りの事が運ばないのは嫌だし、生きている意味がない。そんな強い不安を抱えているように見えてしまう。だから、自分を守ることだけに偏りすぎてしまって、他人に対して過剰な反応が出てしまうのだと思う。 そして、自分勝手にふるまっている人が発している言葉からは、どこか不安さや攻撃性を感じてしまう。その言葉からは、本当に自分を大切にしているようには感じられない。それだけなく、話す
週末の夕方にウオーキングをしていると、ウオーキングやランニングをしている人とすれ違うことが多い。平日でもすれ違うことがあるが、週末のほうが圧倒的に多い。すれ違う人を見ていると、ウオーキングはどの年代の人もやっているような感じで、ランニングは10代から20代の人が多いような印象だ。 家から歩いて10分ぐらいのところに調整池があって、その周りは1kmほどの遊歩道になっている。ウオーキングのコースの一部として週末にそこへ行くと、何人もの人がウオーキングをしている。もしかしたら、そこは工場や車の騒音も聞こえないような静かな環境だからということもあるかもしれない。それでも、調整池の周りを何人もの人がウオーキングしている光景というのは、いつ見ても驚いてしまう。 こうしてウオーキングやランニングをしている人と何回もすれ違うと、体を動かすことで自分の体を気遣っている人は確実にいるんだなと思ってしまう。そう
先週末から風邪をひいて体調を崩してしまったので、晩に行っていたウオーキングをやめていた。しかし、ようやく体調も戻ってきたので、今日からまたウオーキングを再開した。病み上がりかつ久々だったので距離は短かったけど、こうして少しでも体を動かすだけでも心身ともにだいぶ違うものだ。 ウオーキングの途中で、「こうしてまたウオーキングを再開して続けていけばいいのか」と思ってしまった。続けていたことがあっても、あるきっかけで続けることが止まってしまうと、そこで気持ちが切れてしまってそのままやめてしまうことが今までは多かった。そして、その度に長期間続けることができない自分をいつも責めてしまっていた。 一日も欠かさずに、何かを長期間続けることは確かに素晴らしい。でも、続けることにこだわりすぎてしまうのもどうかと思ってしまう。続けることの大切さよりも、一日欠かすことの恐怖や不安のほうが強くなってしまうと思うから
物事を効率よくやったり無駄をなくしたりすることは、大切だとよく言われる。でも、それはいきなりできるものではないと思う。やっぱり、失敗したことや無駄なことをやってしまったことを経験して反省し、やり方を工夫していくことで、効率よくできたり無駄が少なくなってきたりするのだと思う。 今まで僕は、失敗を避けて手堅いことしかやらないような人間だった。確かに、失敗の程度によっては取り返しがつかなくなる場合もある。だから、ある程度の慎重さは必要だと思う。でも、失敗や無駄をあまりにも回避したがる生き方というのは、ずるい生き方かもしれないと思えてきた。何というか、楽をしていいところだけをとろうしているような気がしてきたからだ。 そうなっていたのも、自分が失敗したときの反応を気にしすぎていたからだと思う。確かに、少し失敗でもやたらと叩く人はどこでもいるものだ。でも、全く失敗しない人はいない。失敗なんて誰の身に起
ブログで新しい記事を投稿した瞬間というのは、僕にとっては本当に嬉しいものだ。自分が言ってみたかったことを書くこと」は、やっぱり気持ちがいい。記事を書いている時にうまく言葉が出てこ悩んでしまっても、「公開する」をクリックすれば記事を投稿したという達成感と満足感で心はいっぱいになってしまう。 この「自分が言いたかったことを記事として投稿できた嬉しさ」があったことが、はてなブログを1年以上続けることができた理由の一つだと思う。逆に言えば、投稿した時にそのような達成感や満足感を感じなかったら、今まで続けていなかっただろう。自分が思ったり感じたりしたことを文章にまとめて、一つの記事として投稿する。それが僕にとっては大事なことだと思っている。でも、最近はその気持ちが薄れていたと思う。 そんな折に、ブログアクセスに関するエントリ読む機会があった。そして、それらのエントリを読んでいるうちに違和感を感じてし
何かをするとき、まず最初の部分を決めることは大切だと思う。気持ちが焦っていても、まず最初の部分を決めて順番通りに物事を進めたときには、いい結果を得ることが多かった。逆に、焦りや楽をしたい気持ちから最初の部分を飛ばして物事を進めたときには、望んだような結果が得られないことが多かった。 そう感じるようになったのは、ブログを更新しようとしても文章が進まない原因を探していたのがきっかけだった。 原因を探った結果、なかなか文章が進まないときというのは最初の部分が決まらなかった場合がほとんどだった気がする。時には最初の部分を飛ばして、書けそうなところから書きはじめてみることもやってみた。しかし、いざ書きはじめてみても、文章の羅列になってしまうばかりだった。逆に、最初の部分が決まってしまえば、その後の部分も順調に書けて完成までたどり着くことができた。 そういうこともあって、書けないからといって焦って途中
いろいろな大人を見て感じることがある、今のいいところを見つけて話せる大人は素晴らしいと思う。もちろん、都合の悪いことから目をそらすということではない。今という時代が嫌に感じても、その中からいい面を見つけ出そうとする姿勢が、今を大切に生きている感じがして素晴らしいと思ってしまう。 周囲を見渡してみると、年齢が上がるにつれて今を悪く言ったり過去を美化する大人は多くなってくる気がする。もしかしたら、年を取るとともに時代に適応しづらくなるものかもしれない。だからこそ、今を良くないように感じたり過去が素晴らしかったように感じてしまうと思う。それに加えて、年をとるほど自分が発言しやすくなる環境になっていくこともあるかもしれない。 そうは言っても、今の批判や過去の美化ばかりを聞かされる度に、僕はがっかりした気持ちになってしまう。過去ばかりを大切にして今を大切に生きていないような感じがしてしまうからだ。昔
新年あけましておめでとうございます。2015年がスタートしました。やっぱり、年が変わると気分も変わりますね。 最近になって、人を心から大切にしてみようという思いが芽生えてきました。今までは、自分が手を差し伸べても、相手は受け入れてくれないのではないかという不安がありました。もしかしたら、ここ数年は精神的に不安定だったからかもしれません。でも、ようやく気持ちが落ち着いて、人間関係に向き合えるようなってきた気がします。今年は、自分から声をかける場面を少しづつ増やしていきたいと思ってます。 このブログに関しては、前年のペースを維持しつつも、テーマも少し拡げてみるのも面白いかもしれないと思っています。前年の終盤にそのヒントが見つかったので、今までの一面に加えて、新しい一面も見せたいなと考えています。多くの人に読んでもらえるようなエントリになるように、工夫をし続けたいと思ってます。 それでは、今年も
最近、BGMとしてラジオを聴くようになった。といっても部屋の電波の入りを考慮して、「radiko」や「らじる★らじる」を使用して聴いている。それまでは、お気に入りの音楽をBGMとしていた。しかし、新しい音楽を入れることもなくほぼ同じような音楽ばかり聴き続けていたせいか飽きを感じるようもなってきたので、ラジオを聴いてみようと思うようになった。 ラジオを聴いていると、時間によってCMが入ったりコーナーや番組が替わるので時間の感覚をはっきりと意識できるのがいい。さらに、いつどんな曲がかかるかわからないという面白さがある。そんな時にラジオから自分が好きな曲がかかると、なぜだか得したような気分になってしまう。改めてラジオの良さを再認識している。 前の会社では外回りをする機会が多かったので、車でラジオを聴くことが多かった。そしてラジオを聴くことが習慣になったせいか、会社を辞めた後もラジオを聴くことが多
最近、書き出すことが大事だ思うようになった。というのも、何かあることに紙に書き出して状況を整理するようにしているのだが、実際に書き出してみると、やるべきことがハッキリするせいか気持ちも落ち着くことが多くなった。やっぱり、頭だけで状況を把握するのと、紙に書き出して状況を把握するのでは大きな差があると実感している。 確かに、わざわざ紙に書き出さなくても自分で覚えてさえいれば、把握しているということになるだろう。でも、それは把握しているつもりだけで、本当は把握できていないのではないかと思う。そういう状況では、誰かから自分の状況を質問された時、具体的に答えられないと思う。もし答えられたとしても「おそらく」とか「いちおう」というはっきりしない言葉を連発してしまうような気がする。つまり、把握できていないから具体的な言葉が出てこないのだと思う。 そして実際に書き出してみると、頭で思っていた状況と紙に書き
僕は人から怒られるのが嫌だ。なぜ人に怒られるのが嫌なのか?それは「もし怒られたら、許してもらえないのではないか」という不安があったからかもしれない。もっと言えば、許してもらえないことで、相手にしてもらえなかったり見放されてしまうのではないか、という恐怖もあったような気がする。つまり、怒られた時点でその人との関係はそこで終わり、みたいな思いがあったのだと思う。 そうなってしまうと、人に怒られるくらいようにするために、自分に対して無理や我慢を強いるようになってしまう。しかし、そこで怒られることが避けられても、無理や我慢し続けていれば、人生が無理や我慢の連続になってしまってすり減らしてしまうものが多いだろう。さらに、自分をすり減らしてしまって気持ちに余裕がない分、適切な判断ができなくなって、やる事なす事がどんどん悪い方向に行ってしまうのではないかと思う。 こうして「怒られたくない」という思いで無
「やらずに何もしないよりもやったほうがいい」と多くの人は言うし、事実でもあると思う。でも、そうとわかっていても、やらずに何もしない状態になってしまうものよくある話でもある。それだけでなく、やろうとしていても結局何もしていないということさえある。なぜそんなことが起こってしまうのだろうか。 確かに、やることで願望が叶うことに近づいてくる。しかし、いざやり始めると、途中で失敗してしまって、ダメージをうけたり非難を受けたりすることもある。またはやり始めることで、管理しなければいけないことが増えてしまって、心身ともにすり減らすことだってある。そして、そういう経験を繰り返してしまうと、そんな辛い状態になってしまうくらいなら、何もしない方が楽に思えるようになってしまうのだろう。 なぜ、何もしない方が楽に思えてしまうのだろうか?それは、本当はやらなくても困っていないからだと思う。やらなくても今が何とかなっ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『とりあえず、やってみる。』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く