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大阪会議が都構想の対案でなかった時代と対案になった理由 1/4<その8 大阪会議> - 粉屋の大阪to考想
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大阪会議が都構想の対案でなかった時代と対案になった理由 1/4<その8 大阪会議> - 粉屋の大阪to考想
今回は、大阪会議の前身である「大阪広域戦略協議会」(以下戦略協)についてお話をしたいと思います。... 今回は、大阪会議の前身である「大阪広域戦略協議会」(以下戦略協)についてお話をしたいと思います。この戦略協と大阪会議は、その構造に大きな違いはありませんので同じものと考えて差し支えはありません。お話をするうえで、以前と重複する部分がありますが、一から行きたいと思います。基本的な戦略協の流れはこちらをご覧ください。二窓で年表を見ながら読んで頂くとよくわかると思います。 結論から書くと、この戦略協の条例は大阪府府議会に提出され否決。その後、大阪市市議会で提出され否決。堺市は提出されずに終わりました。最終的に大阪会議条例案が可決され、日の目を見ることになります。まずこの戦略協が議事録にどういった形で登場してきたかを追っていきます。 1.大阪広域戦略協議会の萌芽 これを書いている2015年7月現在、大阪会議は都構想に対する大阪自民の対案というのが世間一般の認識になっています。マスコミ報道もそうです