サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
rekishi-note.hatenablog.com
2018年は【明治】の改元から150年に当たるそうです。 日本の歴史的にみても、明治時代は大きな転換期にあたり重要な時代でもあります。 と言うわけで今日は、明治天皇について書いてみたいと思います。 <スポンサードリンク> 明治天皇の誕生 明治天皇は幕末期の1866年父・孝明天皇が崩御し、翌年の1867年に14歳で即位しました。中学2年生くらいの少年が、幕末の動乱期における新政府の中心になるのですから、ものすごいプレッシャーだったことでしょう。 即位の翌年には、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜から【大政奉還】が行われることになります。これにより、数百年ぶりに天皇と朝廷が政治を執り行うことになります。 rekishi-note.hatenablog.com 【大政奉還】と【王政復古の大号令】の違い 突然の幕府からの大政奉還で、天皇サイドもすぐに対応はできないため、新政府の制度が整うまでは、旧幕府が
戦国時代、戦に敗れた側の人間の財産は奪われ、抵抗すれば殺され、生き残ったとしても奴隷として売られていました。世界的にみればこのような奴隷制度は、よく聞かれましたが、この日本でも数百年前までごく普通に行われていました。 この時代の足軽は、戦場で戦ったとしても所領を貰えるわけではなく、特別なことが無い限り褒美をもらえるのはその主である侍の身分だけでした。そのため、足軽達には乱暴狼藉、乱取りが許されていました。敵地の集落の金品や物品を略奪したり、人々をさらい奴隷として売ることで個人的に利益を得ていました。 <スポンサードリンク> 戦国武将たちも奴隷売買をしていた この奴隷売買は、足軽だけではなく有名な戦国武将、武田信玄と上杉謙信も行っていました。 武田信玄は、信濃志賀城を攻めた時に、敵兵を皆殺しにし、その他の者は全て金山での工夫や情婦として売ったとした記録が残っているそうです。 とは言うものの、
室町時代は、室町幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政に反発した足利尊氏が京都で開いた武家政権の事を指します。名前の由来は、三代目将軍足利義満が創設した花の御所(室町殿)から来ています。 rekishi-note.hatenablog.com 1338年~1573年に渡る約240年の長い時代だったが、応仁の乱以降は実質、将軍の権威はすでになく、各地の守護大名や管領による実質支配がされています。 最終的に、1573年に15代将軍足利義昭を織田信長が追放したことで、事実上崩壊とされています。 この記事では、15人(16人)の将軍を紹介しながら、室町時代の流れを追っていくことにします。 <スポンサードリンク> 室町幕府の歴代将軍 初代:足利尊氏 1338~1358 当初は、後醍醐天皇の挙兵を鎮圧するために、鎌倉幕府の鎮圧軍を率いていたが、幕府への離反を宣言後、六波羅探題を滅ぼし鎌倉幕府を滅亡させ
蘇我入鹿 そがのいるか 藤原道長 ふじわらのみちなが 源 頼朝 みなもとのよりとも 足利尊氏 あしかがたかうじ 織田信長 おだのぶなが 徳川家康 とくがわいえやす 上記の人物は皆さんもよく知っている各時代の有名人の名前です。 6人のルビを比べてみると、上の3人は【の】が付いているのに対し、下の3人は【の】が付いていないことが分かります。 試しにパソコンで【そがのいるか】と打つと蘇我入鹿ときちんと変換されます。しかし【おだののぶなが】と打つと、小田野信長と変換されてしまいます。 他の6人以外に【の】が入る人そうで無い人を書き出してみました。 「の」が入る人 平将門、菅原道真、在原業平、阿倍仲麻呂、平清盛、源義経 「の」が入らない人 北条時宗、楠正成、斎藤道三、上杉謙信、武田信玄、織田信長、真田幸村 これを見ると鎌倉時代を境に、名前に【の】が入らない事が何となくわかります。 では、【の】が付く
パンの原料となる小麦が歴史上に登場したのは約9000年前の事です。 その小麦から作られたパンは、貴重な食料として古来より神様の贈り物として、日々の食事はもちろん、お祝い事などにも用いられていたそうです。 スポンサーリンク 紀元前に、古代エジプトがいち早く小麦の栽培を始めたとされています。世界初の発酵パンがエジプト文明で誕生しました。それまでは、無発酵の生地を使ったクッキーのような固いパンが作られていたそうです。 発酵したパンの発見は偶然の産物で、誰かが作り置きしていたパンの生地に空気中の酵母菌が付いてふくらみそれを焼いたところ発酵パンが出来上がったとされています。その後、各国の貿易が盛んになり、小麦の産地がヨーロッパ全土に広がるにつれて、パンの製法も広まって行きました。 紀元前5世紀~4世紀ころの古代ギリシャでは、人口増加による食糧不足を解消するために、エジプトから穀類を仕入れていました。
古今東西、戦争によって技術が発展することはよく言われています。インターネットにデジタルカメラ、携行保存食、電子レンジに航空産業、果ては鉛筆まで様々です。 それは日本においても例外ではありません。戦国時代に培われた技術が江戸時代に形を変えて普及するようになったことが巡り巡って幕府の財政を圧迫させることに。今回は、そんな戦国時代に培われた技術に着目して江戸時代がどう変わっていったのかを見ていきたいと思います。 <スポンサードリンク> 江戸時代初めに普及した戦国時代の技術とは? 戦国時代、軍事力を支える軍資金や武器の原材料を確保するための鉱山開発に各大名は力を入れていました。この鉱山開発の技術を転用するとで治水や用水路の開発が飛躍的に進みます。 日本はその地理的要因から夏~秋にかけて多くの台風が来ます。 当時は台風時期になると下流域では川の氾濫がかなりの頻度で起こっていたようです。 そのため中世
7世紀末の藤原京以前、大王=天皇の代が変わると宮も移動することを【歴代遷宮】と言いました。似たような言葉で、遷都がありますが、【都】と【宮】の違いはあるのでしょうか? スポンサードリンク 【宮(みや)】は、建物を意味する【屋】に褒め言葉の【み】をつけたもので、古代日本では【立派な建物】を表す言葉でした。さらに、【こ】と言う言葉は、『ここ』や『そこ』と言う場所を表す言葉で、【宮】に【こ】をつけて【都】は、立派な建物がある所という事になります。 ということは、遷宮は立派な建物を移すことで、遷都は立派な建物がある場所(土地)を移すということになります。そして、飛鳥時代以降になると、天皇の住む宮が建てられた場所には行政府もついてくるので、事実上の都もまた宮と一緒に移動することになります。これが遷都になります。 推古天皇が飛鳥で即位して以来、飛鳥時代の遷都は同じ飛鳥地方での遷宮か既に町となっていた【
排泄行為は人類の歴史を見るうえで重要なポイントとなります。 この行為をどのように行ったかによって、その時の文化水準を図ることが出来ます。 あの栄華を極めたベルサイユ宮殿や中世のヨーロッパの街がトイレ問題に苦しみ糞尿で溢れかえっていました。これだけでも驚きを隠せませんが、他にも現代では考えられない昔のトイレ事情を見ると、これまでの世界観が覆ってしまう事でしょう。 今日は、世界と日本のトイレ事情を書いていきたいと思います。 ※食事中の方は、観閲を控えてください… スポンサーリンク 中世ヨーロッパのトイレ事情 まずは、中世ヨーロッパから見ていきましょう。 現在では考えられませんが、中世ヨーロッパでは窓から排せつ物が投げ捨てられていました。そのため、中世から近世にかけての数百年間、パリの路上には人や動物の糞尿があふれて、生ごみが散乱していました。セーヌ川には、虐殺された牛や豚の内臓や血が途切れるこ
学校の歴史教育が大きな転換期になろうとしています。 文部科学省では、2022年を目標に日本史と世界史を融合した【歴史総合】と言う教科を導入すると決定したようです。 高校を卒業した人ならお分かりのように、高校の授業科目に【社会科】と言うのはありません。中学校では、社会科と言う科目の中に【地理的分野】【歴史的分野】【公民的分野】と別れて学習しています。 それに対して、高校では【地理歴史科】【公民科】と2つの科目が設定されています。 地理歴史科のうち歴史科は世界史A・B、日本史A・Bの4つに分類されています。 世界史A(2単位)近現代を中心とする世界史 世界史B(4単位)古代から現代までの世界史 日本史A(2単位)近現代を中心とする日本史 日本史B(4単位)古代から現代までの日本史 高校での必修は、世界史は世界史Aか世界史Bのいずれか1科目を必修。 日本史については、日本史A、日本史B、地理A、
島津氏と聞くと、幕末期の天璋院篤姫のお父さん島津斉彬を思い出す人も多いのではないのでしょうか? この島津斉彬は11代薩摩藩主でしたが、今日ご紹介する島津義弘は、初代藩主島津家久のお父さんになります。 義弘は戦国期の薩摩の英雄とされています。いくさで勇猛果敢に戦い、【鬼島津】の異名を持っていました。また、家族への情も深い人であったとされています。 スポンサードリンク 島津義弘は1535年7月23日に、島津貴久の次男として誕生します。兄は16代当主、島津義久でほかにも歳久、家久と優秀な兄弟がいました。島津氏は、室町時代の守護大名で、薩摩、大隅、日向の守護職をしていました。 1536年頃の島津家は、島津実久との権力争いをしていました。祖父の忠良と父、貴久の親子の活躍もあり、島津家の権力争いに勝ち、家中統一の果たします。 薩摩の権力を掌握した島津貴久は、1550年拠点を鹿児島の内城に移しました。
明治維新の功労藩の名を表す『薩長土肥』の『肥』は『肥前』すなわち『佐賀』を指しています。その中でも『肥前の妖怪』という二つ名を持つ鍋島直正は希代の名君としても知られています。 今回はそんな佐賀藩の取り組みと蘭学狂いとまで言われていた鍋島直正に迫ります。 <スポンサードリンク> 直正が藩主になる前の佐賀藩は?? 正直、かなりの火の車状態と言えましょう。 外様大名が治める佐賀藩は江戸への参勤交代だけでも諸藩に比較すると経済負担が大きくなります。その江戸への参勤交代だけでなく、当時、唯一の外国との貿易が許されていた長崎と距離が近いことから福岡藩と1年交代で警備を担当しています。この警備もまた財政を圧迫させるものでした。 その財政を更に悪化させたのが1808年イギリス軍艦によるフェートン号事件です。 ※フェートン号事件とは… 1808年にオランダ国旗を掲げてイギリス軍艦が長崎港へ侵入してきた事件で
現在の日本の人口分布は、東京を中心とした関東圏に一極集中しています。 しかし、江戸時代には300近い藩が全国にあることから分かるように、かつての日本は今よりも地方の方が活気がありました。 スポンサードリンク 明治に入り徳川将軍を頂点とした幕藩体制は終わりをつげ、中央政府が幕府から朝廷にうつり、1869年には版籍奉還により、土地や人民が明治政府の管轄なります。しかし、ただでさえ藩が多くあり、幕領だった地域は府や県に代わり、その統治システムは、複雑化し効率が悪くなります。そして、1871年に廃藩置県が行われ事になります。 rekishi-note.hatenablog.com これは、藩主を廃して、東京へ移住を強制して、府や県に中央から派遣する県令を置くことで、中央集権化をはかる目的がありました。これは、明治9年に特権階級であった武士を廃止した秩序処分と並んで、明治維新以上の改革と言えます。
日々何気なく生活しているけど、改めて東京の地名をみると江戸を感じる名前は数多くあります。 今回の記事で、普段何気なく使っている東京の地名から江戸時代を思わせる名前を紹介していきます。 スポンサーリンク 皇居がある場所はかつての江戸城 もはやこれは知らない人がいなのではないかと思いますが、明治維新後に明治天皇が京都から移られて皇居となりました。江戸幕府の時代には、歴代の徳川将軍様が居城する江戸城がそこにありました。 そのため、皇居周辺には江戸城に由来する地名が数多くあります。 【堀】の内側だから【丸の内】 現在では、日本のオフィス街になっている【丸の内】ですが、この意味が本来、堀で囲まれた内側と言うのが【丸の内】です。 昔は、場内の建物を本丸・二の丸と呼ばれるように、丸=城の敷地と言う意味を持っていました。 江戸城の門がある地名は、【桜田門・半蔵門・虎の門】 桜田門 警視庁の代名詞でもある【
世界の古くからの文明での大きな建造物の主流は石造りでした。 一方でわが国では、東大寺のような巨大な建築物でも木造が主流です。日本の城でも石は使われていますが、土台部分の石垣だけで建物自体は木か土を練ったものでした。 これは、日本には加工しやすい良質な石が少なかった事が上げられるのは、以前の記事にも書きました。 rekishi-note.hatenablog.com 外国では、城壁を作り城や城下町を囲いましたが、日本では、堀を掘ってその土で土塁と言う壁を作りました。しかし、この土塁だけでは崩れやすく敵も登りやすいために、石垣で補強する事が行われるようになりました。 ただ、石垣を城全体に作るのは、高い技術と工期がかかりました。そのため、戦国時代末期までは、ほとんどの城には石垣がありませんでした。安土城建設以降の近世城郭では石垣が作られるようになりますが、それでも中心部だけだったり、全くない城も
戦国時代は、室町末期から安土桃山時代と並行しているために、肝心の室町時代の流れがイマイチつかみにくいと思っているのは自分だけでしょうか? そこで、室町幕府の成立から滅亡までの流れを書いてみたので参考にしてもらえればと思います。 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が朝廷の政治を復活させるために、建武の新政と呼ばれる新しい政権を興します。しかし、この政策が武士の不満を招く結果となり、協力者であった足利尊氏の離反を呼ぶことになり、政権は数年で崩壊します。 こうして、後醍醐天皇と足利尊氏が対立していくとで南北朝の動乱へと向かっていきます。 スポンサーリンク 室町幕府成立と南北朝の動乱 建武の新政崩壊後の1336年、足利尊氏が光明天皇を擁立して、武士による新しい政権を作るための政治方針を示した建武式目を出します。この光明天皇側が北朝側(京都)とされていて、この時期が実質的な室町幕府の成立とされています。 一
平安時代は災害の多い時代で、その災害が政治にも大きく影響しました。どれだけの災害がいつ頃あったのかを知ることで、怨霊が信じられた背景やそれに伴う幾度かの天皇の譲位、庶民が税から何故逃れようとしたのか??少しは近づけるのではないかなと思います。もちろん災害が理由の全てではありませんが。 そんな理由から今回は年表を作っていこうと思います。平安時代の災害史、始まりです。 平安時代に突入した桓武朝の災害から見ていきましょう。 四角で囲んだ部分は天災によって引き起こされたと思われる事柄や災害対策、その天皇朝の際に起きた大きな事件などについて書いています。 ■桓武天皇朝【781-806】 788年 霧島山(宮崎と鹿児島県境付近)の噴火 790年 京・畿内で天然痘流行 792年 高知で大洪水 794年 高知で大洪水 798年 香川で旱魃 799年 香川と愛媛で長雨 800年 富士山の噴火
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『日本史が好きになる?歴史ブログ』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く