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三砂ちづるさんの著書『オニババ化する女たち~女性の身体性を取り戻す』(光文社)が出版されたのは、今からちょうど10年前。妊娠、出産しないことによる女性の体への影響について書かれあり、賛否両論大きな反響があった。 このところ東京都都議会や国会での男性議員によるセクハラ野次が問題になったが、私がこの問題で気になったのは、「結婚、妊娠、出産」という大事な営みがより一層「腫れ物」扱いされてしまわないか…ということだ。 女性自身が女の体を生きることから、離れてしまわないか…。 女性の地位向上を目指す津田塾大学で、女性が抱える問題に取り組んでいる三砂ちづるさんを訪ねた。 10年前に出版された『オニババ化する女たち~女性の身体性を取り戻す』は、出版当時、タイトルの過激さもあって、かなりセンセーショナルにメディアなどで取り上げられていました。アマゾンのレビューも賛否両論すごく多くて、10年経った今でも書き
自殺したサラリーマンが復生し、なぜ死んだのか、自らの死の理由を追い求める『空白を満たしなさい』。絶望的な連続殺人事件を描いた『決壊』。 作家・平野啓一郎氏の小説は、この世界に救いがあるのかもしれないという希望と、そう救いはないのかも…というかなしみに揺れる心の奥を刺激する。 これから自分はどう生きればいいのか。時代に、社会に翻弄されて足元を見失いそうなとき、その追求をどこ向ければいいのか。平野啓一郎氏の小説を読むと、わたしは考える訓練ができるように思う。 「本当の自分」「生と死」「ネット社会の行方」「40代の苦悩」…。 そこにある不安や絶望を見つめるとは、どういうことなのか…。
浅草に30年以上通い続け、そこで出会った人々を撮り続けた鬼海弘雄氏の写真集「東京ポートレイト」。 そこに写っているのは自分と同じ、ただの無名の人々である。けれども、その1枚1枚に写し出されているのは、ただならぬ尊厳に満ちた人間というものの存在なのだ。ひとり一人の貌、眼光、皺、皮膚、身体つき、姿勢、構え、服装、全てが混然一体となり、その人となり、個の人生を物語る。そこに見る誠実さ、正直さ、真面目さ、厳しさ、空虚さ、弱さ、狡さ、胡散臭さ…それは自分でもあり、自分が知る誰かに似ている。「高そうなカメラだな」と呟いた男、子供のころから目立ちやがりやでよくいじめられたが…と話す男、昨夜つい酔っぱらって喧嘩をしてしまったという男、大工の棟梁、笑うおばあちゃん… ひとり一人の肖像に添えられた鬼海さんの言葉に、それぞれの人々が踏みしめ噛みしめてきた情感が浮かび上がる。写真は、抽象イメージに逃げず、具象で人
わたしが「ポートレイト」を見て、強く惹きつけられたのはやっぱり鬼海さんのキャプションなんですね。「遠くから歩いてきたと呟いた青年」「ゆっくりまばたきする男」とか、ありふれた普通の言葉なんですけど、そのひとことで、ああ、この人はずっとそうやって、そんな風に生きてきたんだろうなと、自分の中で勝手にその人の物語が膨らんでいきます。
2013年新書大賞4位の『わかりあえないことから〜コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)で、平田オリザ氏は「わかりあえないところから出発するコミュニケーションというものを考えてみたい」と記している。 ネット、スマホ、SNS、アプリ……。次々と生まれてくるコミュニケーションツールに翻弄されていくうちに、リアルなコミュニケーションも含めてどうつきあっていけばいいのか、正直わからなくなっていた。 理性も感情もひっくるめて混沌としたシステムになっている人間について、演劇でどう理解を進めていけるのだろうか?
学生運動、安保闘争、安田講堂、よど号、三島の割腹自殺、共産革命、連合赤軍、あさま山荘・・・と言葉を並べただけで、その時代の映像イメージが浮かんでくる60〜70年。1970年生まれのわたしがその時代の出来事に関心を抱くのは、自分はどんな時代に生まれたのかということを知りたい気持ちと、当時の人たちと今の自分たちのメンタリティーとどこがどう違うのかが知りたいからだ。自らの行動によって世界は変えられると思うだけでなく、実際にヘルメットをかぶり、ゲバ棒持って機動隊と衝突するような学生たちがいた。自らの思想信条のために死ねる人間がいた。その激しさ、その熱量の凄さは何なのかー。60年代、いわゆる右翼学生として、主流派の左翼学生とひたすら殴り合い、闘うブームが過ぎた現在も運動家であり続ける鈴木邦男さんに、自らを振り返り、語っていただいた。あの時代、何を思い、何のために闘ったのか。そして、何が変わったのか・
わたしが大澤さんの論考に初めて触れたのは2010年の「THINKING O」でした。 その中で、大澤さんは角田光代さんのベストセラー小説『八日目の蝉』を題材に、本来不幸(幸福)であることが必ずしもそうではない人間、そうはならない人生の不可解さを紐解いて行きます。 これほど豊かで恵まれた社会であっても幸福を感じられない現代社会、夢や希望を持てない今の人々、若者たち。“満たされても満たされない”むなしさ、やるせなさとはいったい何なのか・・・ そこには「物語化できない人生」の生きづらさがあるという大澤さん。誰もがよく知る小説、映画、アニメ、事象を取り上げながら、とらえがたい人間存在の本質に迫ります。 ***「八日目の蝉」あらすじ*** 角田光代さんのベストセラー小説。物語は第一章と第二章からなる。第一章では、不倫関係にある秋山の子を妊娠、中絶した過去をひきずる希和子の視点で描かれる。ある朝、希和
震災後、多くの歌手やアーティストが被災地の人たちを励まし勇気づけるライブ活動を行ってましたが、正直、もし自分が被災者として体育館にいたとしたら、人生は素晴らしいとか夢や希望や愛がどうのみたいな、そういう明るく前向きで耳障りのいい歌は聴きたくないと思ってしまいました。 私も何度か被災地に足を運び、家や家族を失った被災者の人々の前で歌わせてもらったんだけど、もうね、みんな心の奥の悲しさを必死に堪えているのがどうしようもなくわかるのね。普通のコンサートだと、私の歌に自分の人生や哀しみを重ねて、涙をこぼす観客の方が多いんだけど、それは人生色々あったけどいまここにいる自分を肯定できる幸せな涙なのよね。でも被災地で私が見た涙は、ほんとに辛くやりきれない涙。号泣の絵が浮かぶ涙。胸が張り裂けそうなほどせつない。だから「泣こう。大丈夫、泣こう」って、私も一緒に泣いたのよ。そしたら「あきちゃん今日はありがとう
演歌の女王・八代亜紀—。1971年のデビュー以来、演歌としては異例ともいえる数多くのヒットを飛ばし、歴史的セールス記録を打ち立ててきたその輝かしい実績を語られるまでもなく、その名を聞けば、わたしたちの中にはすぐさま、その歌が、その声が聴こえ、その歌が鳴り響いていたあの頃の思い出がかけめぐる。 自分の身を象徴として人々の内にある何かを呼び覚ます存在であることが、八代亜紀が演歌の女王たる証なのだ。 取材中、「私は歌の心を伝える代弁者でありたいの」とさらりと語った八代さんの言葉に、わたしは虚を突かれた思いがした。誰もが表現者になりたい、誰もが表現者になれる時代であるからこそ、日本を代表する歌手の八代亜紀さんが「表現者」という言葉を使わなかったことに、ことさら打たれてしまったのかもしれない。何というか、聖書にもあるように、真実の光はいつも人の形をして、人の声を通して現れるということを八代さんの肉声
昭和50年代、大阪のテレビ番組でその美貌と毒舌トークに魅了された小学生のわたしは、母親から「この人、ほんまは男やで」と聞かされたときの衝撃を今も鮮烈に記憶している。わたしにとって、カルーセル麻紀さんは「日本で初めて性転換手術をしたすごい人」であり、いわばそれは、世界で初めて月面着陸した、日本人で初めてエベレスト登頂に成功したのと変わらない前人未踏の挑戦であったと、尊敬してやまない女性のひとりとしてその生き様を自分の胸に刻みつけたいとインタビューさせていただいた。 幼心にゲイという世界、ニューハーフという生き方、さらにはモロッコという性転換手術の国があることなど、学校では教わらない世の真実を教えてくれたカルーセル麻紀さんに、今またわたしは「自由に生きる不自由さ」を教えられた。自分らしくありのまま自然体で生きるということは、裸になり、身を切り、血を流し、苦痛に耐え、闘い続けることだということを
原武史さんの著書を読むと、「あたりまえにあるものについては意識されない」ということを強く感じさせられます。たとえば、原さんの著著のテーマである天皇、鉄道、団地。その存在について深く考えることはなくとも、しかし、戦後日本の政治・経済・教育・社会・ライフスタイル・価値感というものは、つねにそうしたあたりまえに存在するものによって無意識に形作られてきたことに気づかされます。政治思想史を専門に明治学院大学で教壇に立つ原先生に、時代によってつくられ、そしてまた失われる“無意識の思想”について、天皇・鉄道・団地をテーマに語っていただきました。 以前、先生が主催する明治学院大学国際学部付属研究所の公開セミナーに参加させていただきました。これまで、天皇、鉄道、団地など様々な切り口・テーマから日本の歴史・思想を紐解いてこられた先生ですが、まず「天皇」について書こうと思われた経緯についてお聞かせ下さい。 明治
いや、全然思ってない。僕はテレビ局に入ってドキュメンタリー番組を作るか、映画の世界に入りたいと思ってました。それが大学4年の夏休みに、ちょっと恋愛問題でつまずいて就職活動ができず困っていたところ、ゼミの先生に大学院をすすめられて。「責任はもたないけどね」って。で、それもいいのかなと。
日本の経済団体にとっては、アメリカの市場がなくなるのは死活問題ですから。たとえば、自動車、工業製品などの日本製品は5%の関税がかかる。ところがもうすぐ韓国はすべての工業製品、自動車製品、すべて関税ゼロになるわけですよね。そうしたら日本製品は太刀打ちできない。そこで政府にアメリカの言う通り、TPPに参加して関税撤廃しろと日本企業・経済団体は迫る。 でも、実際には為替を操作する力はアメリカにある。日本にはないんだよね。アメリカが円高ドル安に誘導するだけで、5%関税があろうがなかろうが、日本製品をブロックすることなんて簡単にできるんですよ。実際には経済団体も目くらましにあっている。わかっている人はわかってると思うけど、世論はそうじゃないからね。
日本は昔からそうだからね。幕藩体制の江戸時代には、地方自治があったように思われますが、実際に政治統治を行っていたのは武士で、農民は田畑を耕し米を作る労働集約的な共同作業に没頭するのみ。年貢が高くさえなければ、それでよかったわけでしょ。そういう意味では、およそ大半の日本人には「自治」の習慣がなかったといってもいいかもしれない。 今の日本もそうだよね。軍事と外交、国の根幹、舵取りは全部アメリカにおまかせで、自分たちでやっているのは利害配分の調整だけ。果たしてそれを政治と呼べるのかどうか。たとえばヨーロッパでは、民衆と呼ばれる中間集団というのは、統治権力、政府に対抗すべく、自分たちの手で自分たちの社会を作りあげようという考えがあるけど、日本の場合、地方自治体も、町内会も、学校もすべて統治権力のヒモ付き、下部組織なんだよね。
社会学者・宮台真司さんの著書の中で、わたしがもっとも影響を受けた一冊「終わりなき日常を生きろ」。そこには「さまよえる良心」と「終わりなき日常」という2つのキーワードが語られている。いわば、それは、80年代半ばから今日まで延々と続く「漠然とした不安」という日本社会の克服しがたい病理のようでもある。今から13年前に書かれたこの本で、宮台さんはすでに「システムに依存して生きることの危うさと愚かさ」を暗に予言している。—終わらない日常を生きるとは、スッキリしない世界を生きることだ。何がよいのか悪いのか自明ではない世界を生きることだー「終わりなき日常を生きろ」より抜粋)。原発、放射能、エネルギー、経済、生活・・・と、今、わたしたちはまさに何をどう考えるべきか自明ではないどころか、学者も政治家も専門家も誰も正しい答えなどわからない現実の渦中にいる。だからこそ今、聞いてみたい。わたしたち一人一人が持つべ
素人の質問ですいません。統合失調症や精神分裂という病名はいわゆる症状のレベルなんですか? それとも並列的なバリエーションなんでしょうか? 並列ですね。精神科の病名というのは300以上あるんだけれども、実際カルテに書くのは6種類ぐらい。つまりバリエーションは6種類程度なんです。ただし、「精神病はひとつ」という説もなくはないんですよ。精神医学の歴史をたどると「単一精神病」という説があり、それは精神病というのは一種類だけだと。ただし“深さ”が違うんだと。一番浅いのが「うつ」状態で、「うつ」の底が抜けると「躁」状態になる。さらにその底が抜けると幻覚妄想が出てきて、いよいよ本格的な「狂気」となる。それが本当かウソかは別にして、臨床の場で多くの患者を診てきた自分の経験や実感から、その説の信憑性は高いと感じます。
一般的な外科や内科の場合、「治る」というゴールがありますよね。でも、精神科の場合、「治る」ということはあり得るものなんでしょうか? たとえば、「人は変われる」「愛があれば人は救われる」といっても、その人の性質や性格は変わらない。その現れ方が多少マシになる程度というのが自分の持論なんですが・・・(苦笑)。 僕個人は、変われるとはあまり思っていませんね。ただ、変われなくても、もうちょっとうまく立ち回れることは可能になる。だから、投薬を続けることでそれなりの効果はあっても、根っこのところで「治る」というのは難しい。 精神科医としては、「まあ色々許せないこともあるだろうけど、もうちょっとうまくやれよ」という妥協点を患者と一緒に見出していくしかない。迷惑かけずに自分でもイライラせずに、そういう方法を考えればいいじゃんっという感じになりますね。
常人には理解しがたい、理由のわからない犯罪が起こるたび わたしたちは人間の心の不可解な恐ろしさに打ちのめされる。 人はなぜ狂うのか。正気と狂気の境界線はどこにあるのか。 精神科医の春日武彦さんは、自らの臨床体験をもとに 人間の深層に蠢く狂気の魔物の正体について、ともすれば非難されかねない 核心を突きすぎた独自の持論を展開する希有な精神科医である。 春日先生の著書を読むたび「話せば分かる」「愛があれば通じ合える」 「人は幸せになるために生まれてきた」などという善意に満ちた人間理解がいかに恵まれた考えであるか、思い至らしめられるものである。 「人間というものはいったい何を求めているのか。その“わけのわからなさ”こそが人間の本質」という春日先生。幸せになりたいのか不幸になりたいのか、救われたいのか堕ちたいのか、治りたいのか治りたくないのか…。知れば知るほど、わけがわからなくなるヒトの“狂気のワケ
やはりリアリティでしょうか。セックスはフィクションであっても、ストーリーはノンフィクション。たとえば、近親相姦物を撮るとします。ところが実際にそういう関係にある息子とおかあさんを撮影に連れてきても、まったく背徳の匂いがしないわけです。何しろ日常的にあたりまえにやり込んでいるわけですから。そうなると我々が抱いているイメージとは随分違ってきますよね。「よしおくん、やめて、おかあさんは死にますよ」「おかあさん、最後だから。これで僕は家を出て行くからお願いだよ!」とかなんとか、そんな台詞を言わせて泣きの涙でやってこそ、みんなドキドキ興奮するわけです。だから嘘でしか、真実は描けない。
昭和の頃は、ひとたび都会のサバンナに出れば、欲望剝きだしのギラついた野獣がうじょうじょいたものです。それが平成の昨今では、草食系やセックスレスカップルなど、男性の性欲や男女の性的関係性もソフトでマイルドな質感に変わってきたと感じるのですが、実際どうなんでしょうか?
色んな人間の修羅場や本性を見てきた監督ですが、そんな監督でも見抜けないことや騙されることもあるんですか? もちろん、ありますよ。ある日、若いお嬢さんがAVに出たいとやってきて、聞いたら21歳だと。それはそれはとホイホイ撮ったわけです。で、2カ月ぐらい経った頃に、そのお嬢さんがお姉さんを連れて来て、身分証明書を出して「妹はまだ17歳です。お小遣い欲しさに出演してしまいました」と、こう仰る。そんなこと今頃言われてもと弱った顔を見せた瞬間、そのヤリ手なお姉さんが示談にしませんかと。それでその姉妹に5百万渡して、このことは3人のヒミツにしましょうと、念書まで書いて一件落着。と、思いきや2カ月後、警視庁が来て捕まりました。たぶん、そのお姉さんのバックに、業界に詳しい男がいて、妹をダシに村西から巻き上げてやれと、そういう話だったんじゃないでしょうか。
‘80年代性春期を過ごした男性諸君なら誰もがご存知、AV界の巨匠・村西とおるさん。昭和のエロ事師として、つねに下半身に密着した人間の欲望ロマンを追い求めてきた村西監督。前人未踏のエロへの挑戦か、はたまた自制の利かぬエロの暴走か。その人並み外れた絶倫的創作欲が法に触れること前科7犯。米国連邦裁判所から懲役370年の求刑を下され、ハワイの拘置所で臭い飯を食わされ、さらには50億の借金地獄。どん底の艱難辛苦をナメ尽くしても虚心坦懐、虎視眈々とわが道をゆく、その不屈の生き様、永遠不滅のエロ魂とはいったい… 人生死んでしまいたいときには下を見ろ、俺がいる。 村西監督の激烈なサービス精神に、なぜか心底救われる者であります!
奉公先の坊ちゃんがチャンバラで遊んでいるときにたまたま刀身がわたしの頭にあたってケガしちゃって。それで年季より早く戻ってきたのよね。そしたらおふくろが「生きていくには何か身に付けた方がいいよ」って。で、おふくろの三味線のお師匠さんに弟子入りしたのが11歳のとき。その月謝が1カ月、1円50銭。その1円50銭を親に出させるのがいやだから、友だちの鼻緒屋の家でお手伝いをして1日10銭をもらって1カ月3円を稼いで、そこから1円50銭を払って習ったの。
2010年9月8日にsalitoteはスタートし、10年目を迎えました。この節目に本サイトを休刊することになりました。これまでサイトを訪れてくださった皆さまには心より感謝を申し上げます。このサイトを始めたきっかけは「インターネット」の世界を肌身で感じたいということでした。自由に発信ができるインターネットで、生きること、そして自由とは何か。そんなことを考えてみたいと。いま、思うことは自由に自分の責任を選び、まっとうしたい。当初と変わっているのか?いえ、変わっていないのかもしれません。ただ選ぶことはできても、選ばれなければ実現できません。インタビューに登場いただいた皆さま、連載を書いてくださった皆さまがこの場を選んでくださったからこそ、これまでsalitoteを続けることができました。本当にありがとうございました。 これから選んでいく世界も、めざすは相思相愛(笑)。 皆さまもどうぞ愛のある日々
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