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大谷翔平
theborderless.jp
0 0 プロ野球独立リーグのひとつ、ベースボール・チャレンジ・リーグ(以下、BCリーグ)に「現役大学生ピッチャー」がいる。信濃グランセローズの笠井崇正(かさい・たかまさ)だ。笠井は現在、早稲田大学スポーツ科学部4年生。早大と言えば、プロ野球選手を多く輩出している野球部が有名だが、笠井はその野球部には所属せず、昨年まで「Y.R.B.C」という硬式野球サークルに入っていた。その彼が、なぜ今、独立リーグでNPB(日本野球機構)を目指しているのか。そこには、「これが最後の挑戦」と決めた21歳の覚悟があった。 2日で諦めたプロへの夢 北海道旭川市出身の笠井が野球を始めたのは小学3年の時。「一緒に遊んでいた友達が入ったから」という理由で、地元にある軟式の野球チームに入ったのがきっかけだった。身体能力が高く、器用だったのだろう。小学生の時は、チーム事情でさまざまなポジションを務めたという。それでも、一番
0 0 神奈川のサッカー少年 1970年代末の神奈川県で、ひとりの幼稚園児が読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ)のスクールでサッカーに打ち込んでいた。 少年の名前は栗村修(くりむら おさむ)という。 時代はJリーグ発足の10年以上前である。サッカーは今ほどメジャーな競技ではなかった。無名競技ではないが、その地位は野球などの「メジャースポーツ」には及ばない。「ラモス・ソブリーニョ」というブラジル人が親の反対を押し切って来日し、読売サッカークラブに入ったのはこの頃である。彼は後に日本国籍を取得し、ラモス瑠偉になった。 当時のサッカーが置かれた状況を今日のスポーツに例えると、ひょっとすると、サイクルロードレースに近かったかもしれない。 そんな時代にサッカースクールに通う栗村少年は熱心なサッカー少年に見えただろうが、実は本人はあまり乗り気ではなかった。スクール通いは親の勧めによるものだったた
0 0 後に学生スポーツのモンスターコンテンツとなる「箱根駅伝」を考案し、第1回大会で優勝した筑波大学(当時は東京高等師範学校)が、第70回大会以来遠のいている本戦出場に本腰を入れている。名付けて「箱根駅伝復活プロジェクト」。潤沢な強化資金をバックに躍進する私立大学に対し、選手強化に“しばり”のある国公立大学に勝算はあるのだろうか。チャレンジングなプロジェクトの現状と根底にある真の狙いに迫る。 本気の箱根駅伝復活プロジェクト 年明けに箱根駅伝(東京箱根往復大学駅伝競走)を控えた年末。今回も本戦出場を逃した筑波大学駅伝チームは校内のクロスカントリーコースを黙々と走っていた。 筑波大学の前身は、東京高等師範学校。同校の出身であり、日本人初のマラソン選手として1912年のストックホルムオリンピックに出場した金栗四三(かなぐり・しぞう)が、マラソン普及と世界に通用するランナーの育成を目的に学生駅伝
0 0 前編はこちらから レーサー、栗村修 強豪で知られた自転車部に入るべく、有名高校への推薦を蹴ってまで進んだ公立高校。しかし自転車部はすでに廃部になっていた。 だが、栗村修の競技への熱はもちろん、そんなことでは冷めない。彼は高体連(全国高体連自転車専門部)でのレース活動は諦め、神奈川のあるショップのクラブチームに入った。レーサー、栗村修の誕生である。 栗村は実業団に登録して走りはじめた。つまり、高校とは無関係に選手として活動していたことになる。練習は、登校前と放課後に行っていた。 思春期の栗村少年は、自分がロードレースに打ち込んでいることを、あまり周囲に言えずにいた。自分の愛する競技がマイナースポーツであることをちょっと気にしていたからだ。ただし、もし言ったとしても、ロードレースを知っている同級生はほとんどいなかっただろう。 サッカーやマラソンの授業ではなぜか圧倒的な力を発揮する、よく
0 0 1980~90年代の全盛期から、低迷期といわれた2000年代を経て、現在、プロレス人気は新しい時代に入っている。最近では、プロレスが好きな女性を指す「プロレス女子=プ女子」なる言葉もさまざまなメディアで聞かれる。鍛えられた肉体と激しい試合はもちろんのこと、サイン会や握手会など選手との距離の近さにプロレスにハマる20代、30代の女性は急増中だ。 もちろんプロレスを観るだけではなく、実際にプレイをする女性も増えていることをご存じだろうか。「女子プロレスラー」と聞いてイメージしがちな女性像がなんとなくある人も多いかもしれないが、今では容姿や生い立ちともに個性的でバラエティに富んだ女子プロレスラーもたくさんいる。そこで今回は、声優とプロレスラーの二足のわらじを履く清水愛さんにインタビュー。プロレスにハマったきっかけ、声優のお仕事との相互関係など、興味深いお話を聴くことができた。 ――そもそ
0 0 エディー・ジョーンズは2015年10月11日、イングランドのグロスターにあるキングスホルムスタジアムで、日本代表ヘッドコーチ(HC)としてのラストゲームを終えた。 28―18。4年に1度あるワールドカップのアメリカ代表戦を、殴られてはすっくと立ちあがって殴り返す展開で制した。これにて参加する予選プールBの戦績を3勝1敗とし、本人の言葉を借りれば「ワールドカップで24年間も勝っていない日本ラグビーにとっては、はるかにいい」との状況をつくった。本来の目標である準々決勝進出は叶わなかったが、「日本ラグビーの歴史は塗り替えました」。10月限りで辞任する。 革新的なモデルを提示するとの意味で「ジャパンはラグビー界のiPhoneになる」と言ってみたり、独自のスタイルの発信をアピールするため『JAPAN WAY』なるスローガンを打ち出してみたりと、口を開けばキャッチーな言葉を並べる。2012年の
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