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猫
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本稿は『現代思想』2019年9月号に執筆した論文の転載である(許可済)。掲載時のままであり、修正は行っていない。ただし、ブログの仕様上、ルビの削除など、表記に若干の変更が生じた箇所がある。 1. はじめに:将来は必要か? 私たちは次世代を生み育てなければならないのか。もしかしたらその必要はないのではないか。だとすると、将来世代との規範的関係をめぐる議論はどのように変わるだろうか。本稿はこの問いを念頭に置きながら、いまだ生まれざる将来世代との関係における「世代間正義(intergenerational justice)」論を考察する。 世代間正義論の基本的な問題設定は、私たち現在世代はいまだ存在せざる将来世代(ときにもはや存在しない過去世代)に対し、いかなる正義の関係にありうるか、というものである。地球環境問題が切迫したものとして叫ばれ始めた1960年代以降、この問題は日増しに強まる実践的重
というと、いかにも食い合わせが悪そうである。明日、世界が滅ぶとも自由を尊重せよという過激派はおそらくそんなにおらず、国防や警察の一環として公衆衛生を位置づける穏健な論者が多そうな感じ。 エボラ出血熱のときの議論をもとにざっと分けると、1)そこでの検疫や隔離は科学的エビデンスに基づいて最小限であるべき、ぐらいか、2)自由と公衆衛生を対立させる問題設定そのものが不適切であって、衛生は自由の条件である、みたいに論じる方向がある。1はたいした中身がないし、2は自由を実質化する邪悪なものである。こんな選択を迫られるときは問いの立て方が間違っているわけだが、さてどうすべきか。 「最小国家リバタリアン」を自称する神経倫理学者のアンダース・サンドバーグは、以下の記事で「パンデミック倫理」を説いている。 Anders Sandberg、"Pandemic Ethics: the Unilateralist
来年度、青山学院大学でキリスト教法思想史(科目名は「キリスト教と法思想」前期・金曜4限)を担当する予定なのですが(なんていうと無謀に思われるかもしれませんが、基本的には普通の法思想史で、随所でキリスト教との関係を学生と一緒に考えていく、という感じになります)、それにはキリスト者であることが必要とのこと。で、その証拠に受洗時の心境を書いたもの(「救いの証」)を提出したのですが、せっかくなのでここにも置いときます(吉良貴之「独学の限界について」、日本基督教団・池袋西教会『復活の朝』、2015年2月号)。 ***** 私は大学で「法哲学」という科目を教えています。日本の法律は欧米のものを受け継いでいることもあり、根本を理解するには欧米の哲学が必要です。なので、研究者を志したころから聖書を読み、力強い言葉の数々に感銘を受けてきました。しかし、教会に通い始めて痛感したのは、まず何よりも「独学の限界」
1. 法概念論に向けて では、始めます。今回で8回目で、ちょうど折り返し地点という感じですね。これまで扱ってきたのは「正義論」と呼ばれる分野で、たくさんの立場、たとえばリベラリズムとかリバタニアリズムとか功利主義とか、いろいろ紹介してきました。嫌いにならないでください。今回からはそれとはちょっと趣向が変わった話になります。これからやるのは「法概念論」と呼ばれる分野、要するに「法とは何か」を問うものです。 「法とは何か」というのは法哲学にとって根本的な問題ですが、これだけだと問いがぼんやりしすぎていて、どう答えればよいかよくわからないですよね。なのでこの授業では、まずは法に関係するさまざまな言葉の実際の使われ方に着目していってみたいと思います。これは哲学的な言い方をすると「概念分析」と呼ばれるやり方です。で、今回は「自由」とは一体なんだろうか、という問題を扱います。 自由っていうのは、法的に
1948年から49年にかけて出版された文部省教科書『民主主義』は、平易な文体ながら、現代の民主主義理論にとっても示唆に満ちた記述があふれる書である。1995年には径書房から復刻版が出されている。復刻版で400ページ近いこの本は「教科書」ということで一般に思われるようなものとは程遠く重厚であり(初版時は上下二分冊であった)、形式さえ整えれば立派な学術書ともなりえたであろう。だから通読するにはそれなりにたいへんだが(もちろんその価値はあるのだが)、読みやすくエッセンスをまとめた新書も先日、出版されている。 日本国憲法が施行されてまだ間もないころ、これだけの民主主義理論が「日本発」のものとしてまとめられたのは銘記に値することである。また「民主主義」のあり方がきびしく問題になっている昨今、立ち返るべき原点としての重要性も高まっているといえるだろう。 本書の成立には多くの人々がかかわっているが、最も
2016年1月10日の若手法哲学研究会にお呼びしてお話いただく荒木優太さんの「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」(群像新人評論賞優秀作、群像2015年11月号)の感想です。本作はロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深く拝読しました。ここでは第一コメントとして、できるだけ本文に内在的に、思ったことをつらつらと書いてみます。ページ数は『群像』のもの。 72:序文 「生には〈一度〉しかないが、思考には〈何度も〉がある。ここはロードスではない」。反照的均衡ってそういうものかな*1。どうだろう。 73-75:光と闇の光学的コード 高橋たか子「共生空間」(1971)を導入とシメに。 知らない作品だったけど、これがどこまで全体に効いてくるか。 「あの人と私は目鼻立ちこそ違ってはい
2012年11月に東京国際映画祭で鑑賞したときのメモ。 700人ぐらいの会場が満杯で、こんなマイナーなニュージャーマンシネマに人が集まるとはとちょっとした感動をおぼえる。ファスビンダーとかやっても3人ぐらいしか来ないのに。別にドイツ関係なくてアーレント人気ですかね。これ見よがしに『イェルサレムのアイヒマン』を読んでいる院生っぽい観客が複数。 以下、いくつか気がついた点など。ネタバレあるかもしれませんが、基本的に伝記的事実そのままなので特に問題はないでしょう。ヤング=ブリューエルさんのに依拠してるようです。 これ:http://www.amazon.co.jp/dp/4794964242 【映像】 ・冒頭、アイヒマン逮捕のシーン、闇の中からぼんやりと近づいてくるバスがかっこいい。そこから降りたアイヒマンを、モサドの連中がささっと拉致する。いくつかの文献にあるように、特に誰何(suica)はし
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