サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
tsuka-ryo.hatenablog.com
専門が「価値論、道徳心理学、進化論」*1の哲学教授による進化と倫理学が交錯する分野の入門書。 同じ領域を扱っている本が最近日本でもいくつか出ており、道徳の生得論争や生物の互恵性については『モラルサイコロジー』や『自然主義入門』が、10~12章の道徳的実在論争については『メタ倫理学入門』がそれぞれ本書の理解の助けとなった。さらに知りたい方はそれらの本にすすんでみることをすすめる。 さて進化と倫理の組み合わせといえば非自然科学方面の一部ではあまり評判がよくない。その理由としてよくあるのは ・一度やって失敗してる。 ・価値(規範)と事実には隔たりがある。 ・道徳は文化によって多様だ(例:ある地域では通過儀礼で少年たちは近隣の村の無実の村人の首を切ることが要求される)。 などなど。また、これらの合わせ技で主張されることもある。 上で紹介した本でも記述的な探求の規範倫理学への短絡的な適用については警
1965年7月ベッドフォード・カレッジでおこなわれた科学哲学国際コロキウムでのカール・ポパーとトマス・クーンの理論とを対決させるという形で展開された討論を本にしたもの。クーンのよき理解者マーガレット・マスターマンや空気の読めないファイヤアーベントなどいろいろ見どころはあるがここではクーンとポパーについて書く。 まず仄聞するところから想像してたよりも堅実な討論がなされていてそこは意外だった(実際はもっときつい言い方がされてたのかもしれないけど)。またポパーとクーンが一般的なイメージ(というか私の偏見)よりもずっと近い立場で、今読むと何をそんなに争っているのかざっと読んだだけではわからないほどだ。 まずはポパーの言い分、これはようはクーンのパラダイム批判なんだけど、パラダイム(ポパーは準拠枠という言い方をする)を一切認めてないわけではなく、むしろかなりのところ認めている。とはいえ枠組を容易に抜
道徳的判断に関わる心理や行動についての記述的探究を紹介しつつ、それが「〜してはならない」や「〜すべき」といった規範を扱う倫理学説にどう関わってくるかを扱うモラルサイコロジーの本。 なんだか倫理学にケチをつける分野なのではと警戒する読者もいるかもしれないがそういう記述はほとんどない。むしろ書き手の多くが哲学者や、哲学に精通している科学者なだけあって倫理学的含意のみならず、そういった科学的知見自体についての概念的考察にもかなり重きを置いている。 出てくる実験の中にはここ何年かのまさにモラル・サイコロジーのために行われた実験もあれば、もっと昔の心理学的実験をモラル・サイコロジーのために再利用しているものもある。心理学の本に親しんでる読者なら、表にアルファベット裏に数字の4枚カード問題とか、最後に答える被験者は周りの人(サクラ)の意見に合わせがちだとか、どこかで目にしたり読んだりしたことのあるもの
概念連関をたどることによる実践の記述的解明を目指す社会学の論文集のパート2的な本。 概念分析といっても必要十分条件を特定する見解や典型的な属性のセットを分析する見解などいろいろあるが、本書でいう概念分析とは「私たちが概念のもとで自らの行為や経験を理解するその仕方を描くこと」(p233)で、ピーター・ウィンチの1955年の"the idea of social science and its relation to philosophy" *1 を典拠としているとのこと。主に哲学で行われてきた"概念を明晰にすること"と両立する営みではあるらしい(p273)。 社会学に疎い自分からすると一昔前ならミシェル・フーコーが援用されていたようなところで哲学者イアン・ハッキングが援用されるようになっている、もしくは併用されるようになってきているのかなという印象。「分析哲学・科学哲学界のミシェル・フーコー
ベリーショート更新シリーズ 定番の入門書として知られてる(らしい)OUPのvery short introductionシリーズがサイエンスパレットとして丸善から翻訳されておりますが、これはそんなかの「科学革命」を扱ったもの。 科学者と宗教家の闘争の時代というような19世紀に「発明」された古典的な科学革命観を支持している科学史家というのはもうほとんどいなくて、ニュートンなどの有名な自然哲学者の活動は基本的にキリスト教から推進力を得ていたとか、後期中世の知的発酵が14世紀の凶作やペストの中断のあとで再生したのだとか、そもそも科学革命などなかったよなんてカマす人も現れれば、単一の科学革命という考え方への回帰も起こったりして、ここ2,30年くらいの科学革命期の研究では新しい成果が積み重ねられているもよう。 本書は2011年に原書が出ただけあって、(訳者あとがきによれば)そんな最近の科学革命期の研
戸田山さんはよく文体が言及されるけど『交響するコスモス』に載ってるような終始キリッとした文章もあれば、雑誌の『科学哲学』あたりの論文の、元々持ってるユーモアが滲み出てる程度の文章もあるわけで、本書はどうなのかというと一般向けの新書ということでかなり砕けた調子なので軽いノリが苦手な人は注意な。あまり経験的探究に頼らないタイプの哲学アプローチに対して一部挑発的なところもあるのだが、(戸田山さんのような)この手の人達は「もう少し中立的な書き方を!」みたいなお行儀のいいこと言っても火に油を注ぐだけだったりするので、よほどの記述でなければ「偏った人もよのなかには少数は必要だよな」とかなんとか思ってクールに受け流すのがいいと思う(適当)。まあこの著者さんはバランスの取れたフェアな書き方やろうと思えば非常にうまくやれる人なんですけどね。やりたがらないだけで。 本書の内容をざっくりいうと情動の哲学と分析美
勁草書房から出ていた「シリーズ心の哲学」の新シリーズが登場。とりあえず「Ⅰ」だけ読んでみたが、ここ数年の哲学的・経験的探求の成果が取り入れられ、概念の理論や他者理解などホットなトピックも抑えてあって、タイトルに偽りのない一冊になっている。読書案内も充実で以前からもっと紹介されればいいのにと思っていたマシェリやプリンツ、スタインなどの名前があってムネアツでした。 1章 概念の構造とカテゴリー化 フレーゲの概念的なものについてのプラトニズム(野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』pp.221-222)とか、そういう話とはレベルを異にする問題として、概念の内容や構成要素は何かという問題があって、本章では後者について論じられる。 分析哲学の古典的な概念観である古典説(定義説)では概念を、その必要十分条件から成り立つものとして捉える。たとえば「知識」の概念を古典説的に分析すると、 1.Aは「Xである」と信じ
21:49 | 実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用作者: 植原亮出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 2013/12/19メディア: 単行本この商品を含むブログ (3件) を見るこれまでも哲学的自然主義の議論を扱った本はいくつか出てましたが、心の哲学や認識論に特化していたものが多く、自然種の議論や存在論/認識論的な自然主義についてここまで包括的に扱った日本語の一冊の本はおそらくなかったので、その意味では本書は非常に意義があるのではないでしょうか。叙述が明晰に展開されているうえ言及される議論も慣れ親しんだものが多かったので、割とすらすら面白く読めました。自然種の系譜や人工物の存在論などはまだ日本でほとんど紹介されておらず、私もほとんど知らなかったので勉強になりました。今後認識論や形而上学の専門家や自然科学者などから有意義なコメントが出てくることだと思いますが、自分だったらこう
主に英語圏の心の哲学などの分野で、素朴心理学(=解釈理論)ってのがあって、これ、どうも「古代から人々が実際に使っている」とか、「いや分析哲学で形成された哲学理論だ」とか見解が分かれているようなのですが、ここでは信念体系の整合性や合理性を中核とする「信念欲求心理学」を指します*1。 で、その信念欲求心理学をめぐる百家争鳴ケンケンガクガクな状況に、ある程度通じてる人には本書はかなり面白く読めます(素朴心理学って何ですかという人にはすすめません)。 本書の邦訳がでたのが1996年(17年前)なワケですが、その頃はスティッチもドレツキもミリカンもチャーニアクも翻訳されておらず、フォーダーやポール・チャーチランドがかろうじて翻訳されていたぐらいなので*2、「信念欲求心理学がこの先生キノコるには」的な議論を英語で読まれていた方以外の読者はそーとー読むのに苦労なさったのではないかと推測します。 というの
フランスのヘーゲル受容に興味があったので読んでみまつた。 著者のドミニック・オフレは1958年生まれの精神分析家で、本書の原典はパリ人文社会科学アカデミーのジラルド賞というのを受賞しているのだそう。 8925円673ページの大著で(おれ新品で買った)、前提知識として大陸哲学系の議論と20世紀前半の国際政治史についてある程度通じてないと読み通すのはきついかな。 ↓フランスでもあまり読まれてないんだろうか。 http://www.amazon.fr/dp/2246398711 1933年から6年間にわたるパリの高等研究院でのコジェーヴによる「伝説の」ヘーゲル講義にはバタイユ、クロソウスキー、ジャック・ラカン、メルロ=ポンティ、レーモン・クノー、ハンナ・アーレント、岡本太郎といったメンバーが受講生として名を連ねており、フランス現代思想の源流のひとつと言われたりしている。 (第二次世界大戦後)「現
Alexander Rosenberg "Philosophy of Social Science 4th edition" 科学哲学では線引き問題とか理論的対象の実在論争の他に、個別科学の哲学といって「生物学の哲学」とか「心理学の哲学」なんて分野がある。本書は「社会科学の哲学」のイントロダクション。 初期の科学哲学というのは主に理論物理学を分析対象にしていて科学という営みの性質を見落としていたという経緯がある。今はそれほどでもなくなったけれどまだ「自然科学」を分析対象にした科学哲学に偏っていて、そんな中科学哲学者が社会科学に目を向けるようになるのはいい傾向だと思う。 というのも社会科学界隈ってどうも「エヴィデンスがねぇぞゴルァ」みたいなツッコミをよく見かけて、そういうツッコミが有効な局面もあるとは思いますけれども、それとは別に、たとえば議論を再構成して、整合性の検討をしたり、使われてい
……みたいなことに今ちょっと興味あります。 川本せんせいの『ロールズ』なんか読むとけっこう分析哲学の有名人がポンポン登場するんDAYONE。 たとえば冒頭の架空インタビューでロールズにこんな発言させてるね。 ところで今のラインアップ(『現代思想の冒険者たち』)で私に直接影響を与えた人物は、クワインだけです。彼一流のプラグマティックなホーリズム、いわゆる「知のネットワーク理論」から啓発を受けながら、私は「反照的均衡」という倫理学方法論をみがいてきました。それとウィトゲンシュタイン。哲学修行時代にマルコム先生から手ほどきを受けた私にとって、彼はいわば師匠の師匠にあたります。また、「二つのルール概念」という論文もウィトゲンシュタインの『哲学探究』との出会い抜きには書けなかった作品です。 ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select) 作者: 川本隆史出版社/メーカー: 講談社発売日: 200
レベルの高い分析形而上学の議論をTogetterとかで読むと論理学べんきょうしたくなるのである。というわけで今度問題集でも買ってこよっかな。 さて、本書は「フランス」で「現代」で「哲学」ですが「フランス現代思想」ではありません。 著者であるフランス出身のフランソワ・レカナティはヨーロッパ分析哲学会設立者の一人で、ある時期はその会長もつとめた人。 本書が扱ってるのは自然言語の意味理論〜語用論で、東京での講演やスペイン分析哲学会での講演を基にしているようですね。 ヨーロッパ分析哲学会 http://www.dif.unige.it/esap/ 本書はフレーゲ、ダメット、グライスといった分析哲学の偉人の豊かな成果を独自の語用論に取り入れたり検討を加えたり、語用論的に興味深い例文を豊富に使いつつ、明晰で周到な議論を展開してる。 レカナティはルース・G・ミリカンやタイラー・バージのように、伝達という
訳者あとがきによれば、著者ピーター・ディアは世界的な科学史研究誌『Isis』に掲載された論文を精選して編集することを委託されたりと厚い信頼を受けている科学史研究者で、現在はコーネル大学で科学史・科学技術論を講じている。2001年刊行の本書は翌2002年にアメリカ科学史学会からWatson Davis and Hlen Miles Davis Prizeなる賞を受賞しているとのこと。 歴代の受賞作↓ http://www.hssonline.org/about/society_davis.html 本書は1500〜1700年の200年間の科学革命を扱った一般読者向けの科学史・哲学史。 長年にわたる古典的な科学革命観はというと、それまでの時代の魔術的なるものを一掃した(テレレッテレ〜☆ みたいなイメージだったが、本書によれば実際はもっと事情は複雑だったようである。神学や錬金術といったものは18
セドリック・ブックス。 ベルギー出身で、ハーバード大学の助教授、准教授を経て、現在はスペインのカタラーナ高等研究所・バルセローナ自治大学の研究教授。 専門は生物言語学、理論言語学。 本書はハーバード大学での学部生用の講義を基にしているとのこと。サブタイトルにある「ホモ・コンビナンス」とは「組み合わせる能力のある人類」という意味で最終的なブックスの主張でもある。 前回のエヴェレットがチョムスキー派の「ユダ」だとしたら(?)、ブックスは正統的なチョムスキー派。 つまりヒトには本能的(=社会規範とは切り離されている)、生得的な言語能力が備わってますよ、という立場。 で、これ読んで、自分ちょっとチョムスキー誤解してたのかなとオモタ。 よく言語の「柔軟性」「多様性」「社会的・文化的な影響」なんてこと言いながらチョムスキー批判してる人をちらほら見かけるんですが、 自分も直感的に「文化・社会の役割とかど
ピダハンというのはアマゾンの奥地に暮らす少数民族。 元々言語研究のためというよりキリスト教者として聖書をピダハン語に翻訳してピダハンの人々に布教するためにピダハンの村に赴いた著者だったが、やがて現存するどの言語とも似ていないピダハン語と彼らの暮らしぶりのユニークさに惹かれ、ついには無神論者に転向してしまう。 右のキン肉マンに出てくる超人・アトランティスを思わせる(そんなことはない)おっさんがエヴェレットだ! 写真だけ見るとイロモノっぽいが(失礼)ピッツバーグ大学の言語学部長も務めたことのある学術論文を数多く発表している言語学のえらいせんせいです。 原著のタイトルは"Don't Sleep, There Are Snakes"で、これはピダハン流の「おやすみなさい」の言い回し。 amazon.comでは☆5を大量にげっとしている。あぁ、ジョン・サールやピンカーも褒めてんだねえ。 まあ、エヴェ
著者ゼノン・W・ピリシンは1937年生まれ、ラトガース大学に在職し、同大学認知科学センターの所長も勤める認知科学の重鎮の一人。 チザムやシュリックといった古典的認識論の哲学者は、ある内容を持った信念が別の信念を正当化して…という一連の流れをどうやって打ち止めできるか、という問題に対し、信念よりもっと原初的な感覚(所与とかセンスデータ)とかいう答えを与えてきた。それに対し、本書でもピリシンがちょこっと言及しているように、哲学者のウィルフリッド・セラーズはそんなものは感覚印象と命題的内容を持つ知識をごっちゃにしてでっち上げられた「所与の神話」にすぎないといって批判したのだった。 本書は「?」の部分についての哲学的&経験的探求といえる。 1〜3章は視覚における対象把握が主題。 これまでクワインやストローソンといった哲学者は、知覚において何かを同一のトークン事物として同定することには概念化が必要で
これは経済学がどうこうというより20世紀初期ウィーンの状況とかに興味があって手に取った。 本人の手による自伝的ノートをベースに、トピックに関連するインタヴューが合間合間に挿入されるというちょっとユニークな構成。 狭義の哲学者ならぬハイエクの視点から語られる論理実証主義の記述や、当時のウィーンのユダヤ人問題とか、意想外に得られたものは大きかった。 ハイエクのひとつ前の世代の物理学者エルンスト・マッハの哲学が20世紀初期のウィーンで支配的な影響力をもっており、エルンスト・マッハ協会の後身であるウィーン学団とハイエクの所属していたサークルとには共通のメンバーがいたので、その人物を通じてハイエクは論理実証主義の考え方を学んでいった。あの経済学のビッグネーム、シュンペーターもハイエクとほぼ同時代にオーストリアで生まれているが、やはりエルンスト・マッハに全面的にほれこんでいたという。 しかし彼らの経済
読書 | 15:14 | 本書は、南北戦争、ダートマス・カレッジ事件、プルマン・ストライキといった米国社会史上の重要事件に巻き込まれながらもその思想を洗練させていったプラグマティズムの思想家たちの生涯と思想を通じて南北戦争から冷戦期にいたる100年あまりの米国史を叙述している。本書の主要な登場人物はウィリアム・ジェイムズ、チャールズ・サンダース・パース、ジョン・デューイ、オリヴァー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニアの4人。原著は2001年に出ており、2002年には報道、文芸、音楽に与えられる米国で最も権威ある賞とされるピューリッツァー賞を受賞している。邦訳よりずっと安く買えるamazon.comのレビューみるとかなり評価高いのだけど、これだけの賞賛が日本でも得られるかどうかは未知数。というのも邦訳だと6000とかすんのよねコレ……うーん、原著との価格差が悩ましい。http://www.ama
著者のローゼンバーグは1946年生まれ、これまでにラカトシュ賞*1とファイ・ベータ・カッパ協会の教授賞*2をゲットしており、社会学の哲学から生物学の哲学まで関心は幅広い。本書は、著者ローゼンバーグによれば「ヘンペルの『自然科学の哲学』を継承するに相応しいものを執筆しようという途方もない野望から始まった」そうである。その試みが成功しているか否かの判断はとても私にはつかないけれど(ヘンペル読んでないから的な意味で)、本書が自信を持っておすすめできる良書であるとは思いますハイ。 科学哲学で主に問題になってる「合理主義/相対主義」「自然主義/第一哲学」「実在論/反実在論」からラトゥールやエディンバラ学派、ソーカルあたりの科学論にまで言及しており、大体のトピックが網羅されてると思う。 そういうことから、帯にも「最良の入門書」と書いてあって、もちろんそれは否定しないのだけれど、網羅的であったり1から順
自分がコレ読んだのはけっこう前ですけど、大陸系と分析系といいますか、日常言語学派の哲学者が現象学的伝統に言及しているのは割とレアかなと思い、紹介してみます。ライル先生、このとき28歳ですけど、現象学のほうの事情もかなりお詳しいです。 つーわけで、マイケル・ダメットの表現を借りれば、「ライン川とドナウ川」が分かれようとしているまさにその時代、1929年までさかのぼることにしよう。 1929年の英国では、フッサールやブレンターノの翻訳や解説がまだまだ進められておらず、それらの流れの先にある『存在と時間』は、英語圏の読者には手に余るだろう、ということでライルはまず現象学の発生とこれまでの歴史についてコンテクストの素描から始める。流れ的にはブレンターノ→フッサール→ハイデガーとゆう感じ。 ロック、バークリー、ヒュームなどによってすでに問題が設定されていたブレンターノはロックの基本的立場、「観念」と
さしあたり更新おやすみ中です。 戸田山和久さんはいわゆる分析系――戸田山さんや飯田隆さんにいわせると「分析系」とひとくくりにすることが今や期限切れということになるのでしょうが――の哲学者で、単著ではかなり一般向けの本を書いていて、マニアックなトピックは雑誌やアンソロジーで扱っているという印象です。『科学哲学の冒険』などで戸田山さんは<分析系>の哲学者としては有名なほうだと思うのですが、論文の多くは一般読者の目にとまりにくいところで書かれてたりするので、その全貌がちょっとわかりづらいことになっていると思います。せっかくファンになっても単著で止まってしまうのはもったいないと思い、そこからディープな戸田山ワールドへ進んでいけるようこれまでの仕事に少し光を当てられたら、と思いました。 容易に入手できるもので哲学関係のものはほとんど読んだと思いますが、もちろん見逃しがある可能性はあります。なお、読ん
あと1回かそこらでちょっとブログ休みます。ぼくもねえ、トンボつかまえたりドッヂボールしたりして遊びたいわけですよ。 ・ ・ ・ 「人間は不合理」とかフツーに暮らしてたら当たり前だろJKといいたくなるハナシではあるが、この合理性というコトバはちょっと注意が必要だ。 社会主義に対して合理性が批判されてる時は、一人または数人が社会全体について最適な選択をすることは無茶だって言ってんだろうし、市場主義に対して合理性が批判されてるんだったら、個人が効用を最大にするために最適な選択をするのは無茶だといって経済人モデルとかいわれてるアレが叩かれてるのだろう*1。他にも生物学・進化学系の人が合理性という時は、生物の個体や種のための最適な選択をとることという意味合いも考えられる。 気をつけたいのは注釈無しの「人はそんなに合理的じゃない」という一文が社会主義批判の理由にも市場主義批判の理由にもなり得るし、「社
ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち 作者: 岡本裕一朗出版社/メーカー: ナカニシヤ出版発売日: 2009/03メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 42回この商品を含むブログ (4件) を見るヘーゲルの著作の誤読あるいは独自解釈に基づくヘーゲル神話という観点からいわゆる現代思想を解きほぐしていきませう、というのが本書のアウトラインで或る。 大陸哲学といってもいろいろあるけどこの著者さんはヘーゲルの議論を仔細に検討することを通じてヘーゲルに影響を受けた現代思想を整理してる。でもこの著者は現代思想を無下に叩いているわけじゃなく、ここはさすがに「哲学は誤読上等」とかで看過するのはどうなの、と言わざるをえないような所を繊細に指摘しているというかんじ。 たとえば「主奴論」。これは1930年代にコジェーヴがヘーゲルの『精神現象学』を「歴史全体を主人と奴隷の闘争の歴史としてみる
「最近よく更新してますね」といわれますが(いわれてませんが)、以前読書ノートとったまま放置プレイしてたのを今バーゲンセールしているだけという説もあります。その辺の議論については明るくないのでぼくにはよくわかりませんが。 ・ ・ ・ 「言語ゲームと○○」というタイトルには当たり外れが大きいというけんども(というか具体的にたけみたさんがいってたんだけんども)、これは、まあ、楽しめた。 著者のフィールドはあくまで民族音楽の音楽学の人であって、「点」として後期ウィトゲンシュタインを捉えてはいるけど、分析系の美学を「線」としてごりごりにフォローしているわけではないようだ(?)。バルトとかドゥルーズとかもニュートラルに使ってるし。分析美学ではそういう人たちは研究の対象にはなっても援用とかはあまりないし*1。 さて、著者は序章で、音楽の美を認識するときの基本的な問題点を5つあげている。 A 音楽美の消去
哲学者ロバート・ノージックが三十代にしてデビュー作『アナーキー・国家・ユートピア』を著し、注目を集めた7年後、政治哲学から一転して哲学本来の課題に取り組んで書き上げたのが本書だ。 ロバート・ノージックは1938年にロシア系ユダヤ人移民の子としてニューヨーク市、ブルックリンに生まれた。そのことが彼の思想形成に相当の影響を及ぼしていることが本書の謝辞において述懐されている。 彼は高校時代に社会党の青年組織に加入するなど、早くから政治・経済に関心を持っていたようだ。プリンストン大学時代では論理実証主義者であるカール・ヘンペルに師事した。 ノージックがデビューする少し前、ちょうどその頃ロールズの『正義論』が出版され、高い評価を得ていた。ノージックはロールズに心酔しつつも対抗意識を燃やし、『アナーキー・国家・ユートピア』を書きあげたようだ。 しかし、やがてノージックは自らの政治哲学の概念の洗い直しの
読書 | 17:48 | 筆者によれば本書の目的は第一に自然主義という哲学的立場の内容の明確化、第二に「物理主義しかないような理解が広まることは自然主義の射程や可能性を考える上で大きなマイナス」とした上でもう少し広いモデルを構築すること。自然主義といってもいろいろあって、しばしば混乱がみられるのだが、本書では「対象というより方法論的観点から与えられている"仮説演繹法"以上の正当化手続きの存在を否定する」という、つまり第一哲学*1的構想を退ける立場を「最小限の自然主義」とよぶ。いわばデフォルトの自然主義だ。それは物理主義を含まない自然主義で、では物理主義などを含めるその他のさまざまな自然主義はどうするのかというと「物理主義的」とか「自然科学主義的」とか「記述主義的」といったオプションを追加することで区別する、ということを筆者提案する。自然主義をピザに例えるなら、第一哲学の放棄が生地のパンで、
先月、アンディ・クラークがひそか(でもないか)に来日講演をしていたのだった。だからというわけでもないけどプチ特集。 認知の哲学的吟味、基礎付けをおこなう心の哲学の一分野「認知哲学(認知科学の哲学)」というジャンルがあって、アンディ・クラークはその分野の俊英。ということで同じくこの分野で有名なデネットに紹介していただこう。 アンディ・クラークは、今日急速に発展しつつあるこの分野における、疑いもなく最も明晰で機知にあふれた哲学者の一人である。彼があげる例は適切であり、叙述は明快で生彩に富んでいる。(『認知の微視的構造』カバーのコメント) 認知哲学の分野は、統語論的構造をもち直列的にとらえる古典的計算主義(フォーダーなど)、非形式的で並列分散的なものとして表象をとらえるコネクショニズム(チャーチランドなど)、認知は表象を必要としないとする力学系アプローチ(ヴァン・ゲルダーなど)、環境との相互作用
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Repeat The Ending』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く