サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大谷翔平
webmag.nttpub.co.jp
トップ 特別記事 WEB掲載『WORK DESIGN』解説
トップ 特別記事 あとがき本棚2|『思想家ドラッカーを読む』
「西洋化」から「国粋化」へ転換点で、歪む音に狂わせられる人々を、私たちは笑うことができるのか?――1933年は、猛威を振るった世界恐慌が底をつき、景気回復をともなう1年であったと同時に、世界がファシズムに傾斜していく1年でもあった。上向きと下向きが同時に存在する時代状況は、文化においても多様なかたちで歪みを生みだした。音と音楽においても然りである。齋藤桂著『1933年を聴く―戦前日本の音風景』は、そうした1933年の音と音楽に関連するユニークな出来事を通して、〈戦前〉の日本社会の空気を浮かび上がらせ、それ以前/それ以後の連続と断絶を描いた一冊である。全3回にわたる本連載では、その一部を味わっていただければと思う。 もしあなたが1933年の東京にいたとしたら、どこに行くべきだろうか。 音楽が好きなら2月9日に日比谷でパリ帰りのピアニスト、原智恵子の帰朝演奏会が開かれている。映画ファンなら9月
午後六時の教会の鐘の音に誘われて、我が家のキッチンに立つ。そろそろ自家製のパンチェッタの食べごろだし、ローマの友人ゆずりの「サルサ・ディ・ポモドーロ・フレスコ」の作りおきもあったっけ。2000年代の初頭、歴史研究のためイタリアに渡った私の冷蔵庫にはかの国の食材が多い。イタリア留学中、自由気ままに五感を満たしてしまった結果、私は歴史よりも歴史的料理の方が好きになってしまった。 イタリアの歴史は古く、記録を残すのが好きな国民性だから、古代から近代まで多くの料理文献が残されている。それを再現する楽しみは、古の人々の食卓にお邪魔する楽しさだ。歴史的料理を作っていると、もちろんそれぞれの時代に特徴的な食材もあるのだが、どの時代にも重要な役割を果たす食材もあることに気づく。例えば、もきゅもきゅとした食感の塩辛い羊のチーズ、今で言うところのペコリーノ・ロマーノだ。東京であれば今やスーパーでも手に入るし、
スタンフォード大学名誉教授の青木昌彦先生が逝去されてから,早くも一年以上が経過した.この間,青木先生がかかわりを持ったさまざまな団体主催で多くの追悼集会が開かれ,私の知っている限りでは今後追悼号が予定されている専門雑誌もある.私自身,2016年3月27日に開催された進化経済学会全国大会のなかで,青木先生を追悼するセッションを企画・開催し,ドイツから招いたカーステン・ヘルマン-ピラート氏と,中国から招いたチアファ・チェン氏とともに青木先生の制度論に関する発表を行った.今回は,本連載の一回分をお借りして,私が考える青木先生の制度観について述べてみたい.本連載のテーマは「制度をつくる人間」観であって,後の方でも,再び参照点としての青木先生の制度観に立ち返ることになるだろう. 1. 『比較制度分析に向けて』における青木先生の制度の概念把握 制度をどのように概念化するべきかというテーマは,青木先生の
トップ 特別記事 関曠野ロングインタビュー 第1回 思想と歴史について
トップ 連載 第9回「キレる私をやめたい」(田房永子・竹書房)
トップ 連載 第1回 デジタル時代に「紙」の読み方を学ぶ意義は?
前回は新古典派経済学の基礎をなしている人間観を意思決定理論に即して剔出した.今回は,まず新古典派の人間観が,80年代に急速に経済学に取り入れられるようになったゲーム理論によってどのように変化したのか,変化しなかったのかというところから論じていくことにしよう.そのうえで,方法論的個人主義というアプローチについて説明し,新古典派経済学を含む,合理的選択理論に基づく社会科学がどのような構造を持っているのかを総括することにしたい. ゲーム理論という研究プログラム 前回分析した意思決定理論では,1人の意思決定者による意思決定の状況が分析されていた.これに対して,複数の意思決定者が相互依存的な状況で意思決定を行う状況の分析には,ゲーム理論を用いることが必要となる. ゲーム理論は今日では,経済学のあらゆる分野において不可欠なツールとして浸透しており,経済学ならびに社会科学全般の変容に深い影響を与えている
1. パンドラの箱としてのゲーム理論 前回は,伝統的なゲーム理論もまた,信念と選好という2つの志向的状態を組み合わせて効用を最大化するという道具的合理性を有したプレーヤーを前提としているということ,その意味で,新古典派経済理論と同じ人間像を共有しているということを述べた.実際,ゲーム理論はナッシュ均衡,新古典派経済学は競争均衡というように均衡概念こそ異にしているものの,道具的合理性を有した主体による選択と均衡概念の使用,さらには方法論的個人主義という観点で,両者は共通点を持つのである.しばしば,ゲーム理論は新古典派経済学の一部であるという主張を聞くことがあるのは,こうした理由によるものだ. しかし,ゲーム理論が経済学に与えたインパクトはこうしたことをはるかに超えるものである.新古典派経済学の市場均衡では,人と人との関係はあくまで市場を通したものでなかった.技術的外部性という例外はあるものの
前回は,経済学を始めとする社会科学が,それまでこの研究領域において意味がないものとみなされてきた実験をどのようにして1つの研究手法として取り込むようになったのかということについて見てきた.20世紀後半には,この動きと並行して,人間行動について伝統的経済学とは異なる前提をおく経済学が発展してきた.それが行動経済学である.今回は行動経済学の勃興について論じていくことにしたい. 1.行動経済学とは何か 今日では,どこの書店の経済学書の書棚を見ても,行動経済学について書かれた啓蒙書のベストセラーに気づかされないことはない.『予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』,『不合理だからすべてがうまくいく:行動経済学で「人を動かす」』(ともにダン・アリエリー),『実践行動経済学:健康,富,健康への聡明な選択』(セイラー&サンスティーン),『ファスト&スロー:あなたの意思はどのよう
トップ 連載 第2回 一見大衆賛美に見える「審美眼のエリート主義」
みなさんは、「新聞」の読み方をご存知でしょうか。 あえてこんな失礼なことを聞いてみたのには訳があります。最近、新聞の読者層が急速に広がっているにもかかわらず、その「正しい読み方」についての情報が圧倒的に不足しているのではないか、と思ったからです。 「新聞が読まれるようになった」などと言うと、驚く人が多いでしょう。私は昨年10月まで日本経済新聞の記者をしていたのですが、こう言うと元同僚でさえ「えっ?」という顔をします。無理もありません。近年、新聞離れが加速している、というのが記者たちの間では「定説」になっているからです。 日本新聞協会によると、2015年までの10年間で、一般紙の発行部数は649万部減りました(概数、以下同)。これは毎日新聞と産経新聞が発行する朝刊の合計(488万部)を大幅に上回る部数です。 減少のスピードも10年前と比べて加速しており、2014年からの1年間だけで99万部も
新聞は若い人には馴染みが薄いメディアですし、どちらかといえば「古臭くて、これから消えていくもの」というイメージが強いでしょう。「ニュースなんてテレビとネットで見れば十分」と考えている人も少なくないはずです。 私自身も、ここ数年はパソコンやスマートフォンでニュースを読む機会が増えました。確かに速報性という意味では紙の新聞より圧倒的に上ですし、利便性も年々高まっていると感じます。おそらく、紙からネットへのシフトは今後も加速していくでしょう。 ただ、ネットで情報をがんがん集めて分析し、ビジネスなどに活用したいという人にこそ、まず一定期間、「紙の新聞」を読むことをお勧めしたいと思います。 (*鳥の足跡マークをクリックすると、ツイッターで下線部の内容をつぶやけます) 私は「ネットより紙の方が優れている」というつもりは全くありません。私が強調したいのは「ネット情報を本気で活用したいなら、まず紙の新聞を
トップ 連載 第2回 主体の「合理性」とはなにか ――新古典派経済学の「人間観」
制度的現象にみちあふれる日常経験 まず,以下のような日常的経験の記述から始めてみよう. 身なりを整え,自宅を出て駅へと向う.今日は朝から大事な会議があるのでいつもよりも急いでいる.こんなときは他人の家や畑を横切って近道することが頭がよぎるが,いつも通りに決められた道に沿って歩いていく.自動車が来ないので,交差点の信号は無視してしまおう.どんなに急いでいたとしても,駅には改札口から入っていく以外にない.改札口では,人々が次々とIC カードをタッチして入場している.電光掲示板には電車の発車時刻が示されている.それを見て,間に合いそうだと胸をなで下ろす.大勢の人々がひしめくホームでは,何も考えることなく列の最後尾に並ぶ. 電車に乗ってからは,スマートフォンでメールをチェックしたり,ニュースを読んだりする.少し前までは,電車のなかで携帯電話を操作すること自体が禁止されていた.今では,シルバー・シー
0.倫理を巡る表現 「善い話」をすることに疲れている! ここ10年ほど、私は、キリスト教を中心とした倫理思想に関心を寄せてきた。キリスト教という一宗教の中心には「隣人愛」という、だれ彼かまわず助けるという無防備極まりない倫理がある。私はこの倫理のこだわりのなさ、そして気前の良さに惹かれてきた。しかし、この手の「困っている人はどんな人でも助ける」という話は、一歩間違うといかにも「善い話」で、誰もが「やらないよりはやった方が善いが、でもあんまりやりたくない」と考える話であるから、上手に語ること自体はとても難しい。そもそも「やった方がよい」という前提があって語ることには、説教臭さが漂いがちであるし、ましてや多くの人は「やりたくない(けど「やりたくない」と言うことははばかられる)」と予想されるからこそ、話者にも負荷がかかって語り口が力んだ感じになりやすい。こうやって話者/論者が意識過剰になることに
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『Webnttpub.|エヌ・ティ・ティ出版のウェブマガジン』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く