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▼臨死(りんし)体験 臨死(りんし)体験とは、事故などで重症に遭(あ)い、医学的にはほぼ絶望的な状態から、あるいは一度死亡が確認されてから、再び蘇生して生き返った人が、死んでいる間に「あの世」で体験してきたことを言う。このような例は、はるか昔から世界中で数多く報告されている。 東京の会社員であるAさん(当時26歳)は、ある日の夜、車を運転していてガードレールに激突するという事故を起こした。すぐに救急車で病院に運ばれたが、Aさんの怪我はひどく、手の施しようのない状態だった。 ほぼ絶望的な状態ながらも母親の必死の頼みで手術が行われることになった。結果的にはAさんはなんとか蘇生したものの、その治療を受けている間に臨死(りんし)体験をしてきたのだという。 「何か周りが妙に騒がしいという感じで目が覚めました。自分自身はなぜか部屋の高い場所にいました。そして自分がひどい怪我をして病院で治療を受けている
二件の殺人事件の犯人として捕らえられた羽賀竹男は、事件とは無関係であった「梅田義光」を首謀者に仕立て上げる嘘の供述をした。羽賀の供述に従って逮捕された梅田は、身に覚えのない犯罪で実刑判決を受けてしまう。 冤罪(えんざい)とは、無実であるにも関わらず、犯罪者として確定されてしまう場合を言う。そのまま「その無実の人」が、実刑判決を受ける場合もある。 真犯人が巧妙に、特定の誰かを犯人に仕立て上げるために小細工をし、警察や検察がそれに引っかかってしまう場合や、捕らえられた犯人が「実行犯は俺だが、首謀者はあいつだ。」と、自分の罪を少しでも軽くしようとして無関係な人間を首謀者として訴えたり、それによって逮捕された無実の人間が、警察側からの自白強要の拷問から逃(のが)れたいがために、やってもいない犯罪を「やった」と自白するなど、様々な要素から冤罪(えんざい)は生まれる。 ▼二件の殺人事件 昭和25年10
吸血鬼といえば美女の首筋に牙を突きたてて血を吸う、というのが一般的なイメージである。ではなぜ吸血鬼は血を吸うのか? 普通に考えれば血を食料としているからと思われがちだが、20世紀の吸血鬼であるジョン・ヘイの場合はちょっと違う。 ジョン・ヘイが吸血鬼として暗躍していたのは、1944年から1948までの4年間。場所はイギリスのロンドン。 幼い時彼はちょっとした怪我をして、傷口から流れ出る自分の血を見て胸がときめいたことがあった。試しにその血を指につけて舐めてみると、全身に衝撃が走った。そしてなんとも言えない特別な快感を味わったのだ。 「うまい! 血っていうものはこんなにもうまいものだったのか!」 大人になってからも彼の「血が飲みたい」という欲望はますます膨らんでいった。そして彼にとって、「人間の血」というものは心の中で特別な存在となっていったのだった。 ある日のこと、彼はロンドンの街角でデュラ
「最も残酷な死体」と言われる形で発見された若い女性の死体。いまだ犯人が見つからない未解決事件。 ▼事件発生 1947年、アメリカのロサンジェルス。この年の1月15日の午前10時ごろ、一人の女性から警察へ通報の電話がかかってきた。 「空き地の枯草の中に女性が倒れてます。辺りにはハエも飛んでます。」 通報を受けた警察は、現場の担当エリアである、ロサンジェルス・ユニバーシティ分署にこれを伝え、この分署のパトカーが現場に急行した。現場はハリウッドから車で10分程度の、住宅街の空き地らしい。 パトカーは現場へ着くまでの間、当然、警察署と無線で連絡を取り合うのだが、この無線でのやり取りは、リアルタイムで、何人もの新聞記者たちに筒抜けになっていた。 この時代、記者が警察無線を盗聴していることなどは当たり前の時代だったのだ。何らかの事件があったことを知った各社の記者たちも急いで現場へと向かった。 一番乗り
▼ジル・ド・レの人生の頂点 ジル・ド・レは、1404年にフランス王国・ブルターニュ地方のナント近郊で生まれた。この時、時代は、フランスとイギリス(イングランド)が戦った百年戦争(1338 - 1453)の真っ最中であった。 父も母も貴族の出身であり、一家はフランス西部一帯に広大な領土を所有し、財産も莫大(ばくだい)なものだった。 ジルが11歳の時、両親が立て続けに死亡(父親は戦死)し、一人残されたジルは、両親の残した莫大な遺産を引き継ぐこととなった。 この後は、母方の祖父に引き取られ、ここからは祖父に育てられることになる。しかしこの祖父は、少年愛の愛好者であり、後(のち)にジルが男色(ホモ)に走ったのも、この祖父の影響が大きいと言われている。 ジルは成人して間もなくして結婚したが、この結婚は、祖父が無理矢理決めた結婚であった。祖父は自分の領土を拡大するために、ジルを、近隣の領土を持つ領主の
第二次世界大戦終了後、地球の裏側・ブラジルでは、そこに移民していた日本人のたちの間で「日本は勝った」「いや、負けた」と意見が真っ二つに分かれ、その対立は殺人事件にまでエスカレートしていった。 ▼戦争終結。その時ブラジルでは・・。 1945年、第二次世界対戦が終結した。日本ではポツダム宣言を経て、無条件降伏文書に調印し、日本にとって戦争は「敗北」という形で終了した。 これ以降、日本はアメリカの支配下に置かれることになる。 そして終戦後、日本にとっては地球の裏側の国に当たるブラジル。 この当時でもブラジルには多くの日本人が移住して住んでいたが、ブラジルに住む彼らの間では 「戦争は終わった。日本はアメリカに勝った。」 と、「勝った勝った」と大騒ぎになり、各地で戦勝祝賀会が次々と開かれていた。 まるっきり現実と正反対の話がブラジル国内の日本人の間を駆け巡っていたのだ。当時ブラジルに移住していた日本
かつてイギリスは世界でも有数の刑罰の厳しい国で、現在でこそ廃止されているものの、かつては死刑も存在した。窃盗でも死刑が適用されたことがあるほどの厳格な国が死刑廃止の方向へと向かったのは、1949年(昭和24年)のロンドンで起こった事件がきっかけである。 1949年(昭和24年)、ロンドンのノッティングヒルゲートにあるアパートの裏庭で、女性の他殺体が二体発見された。被害者は二人ともこのアパートの住人で首を絞められて殺されており、一人はベリル・エヴァンス、もう一人はジェラルディンという名である。二人は母と娘の関係にあたる。 容疑者として、ベリルの夫であるティモシー・エヴァンスが逮捕された。しかしティモシーは普段からよく嘘をついたり、空想のようなことを言ったりと発言がどこまで本当か分からないような男で、警察の取り調べでも「自分がやった」と言ったり否定したり、供述が二転三転していた。しかしいざ裁判
9歳の少女を連れ去り、9年以上に渡って自宅に監禁する。わずかな食べ物しか与えられない生活の中で、少女は救出されるまで生き延びた。 ▼監禁の始まり 平成2年11月13日、新潟県三条市内で、小学4年生の少女(9)は、小学校からの帰り道、ある男にいきなりナイフを胸に突きつけられた。男は、言うことをきかなければ殺す、などと少女を脅し、自分の車のトランクに少女を押し込めてそのまま連れ去った。 この日の夕方、いつまでたっても娘が帰ってこないことを心配した少女の母親が19時45分ごろ、三条市内の駐在所に届け出た。捜索は行われたが、その後何日経っても少女の行方は依然不明のままだった。 少女を誘拐したのは、新潟県 柏崎市四谷に住む佐藤宣行(27)である。 佐藤は、さらって来た少女を自分の部屋へと連れ込んだ。佐藤の家は2階建ての住宅であり、この家は佐藤が小学1年生の時に両親が建てたものである。 この家の2階の
ある死刑囚が、死刑執行を告げられてから実際に処刑されるまでの様子を録音されたテープが公開されていた。 現代では、死刑の執行を本人に告げるのは、執行当日の午前9時ごろで、処刑は10時には執行される。死刑囚からすれば、処刑の1時間前にいきなり通達があるということになる。 現在はこれが慣例となっているが昔からそうだったわけではなく、かつては2、3日前に本人に告げることが普通であった。 執行日を聞かされた死刑囚は、残された時間で家族に会わせてもらったり、他の受刑者と語り合ったりして、自分の最後の時を迎えていた。 昭和30年(1955年)、大阪拘置所の所長である玉井策郎氏は、ある死刑囚が死刑の執行を告げられてから、最後の時を迎えるまでの53時間をひそかにテープに録音していた。 元々、拘置所の職員や教誨師(きょうかいし = 死刑執行の際、お経をあげたり祈りをささげたりして死刑囚の心を安息に導く役目の人
他人に対する嫉妬、自分の不幸な境遇に対する怒り。丸山博文(ひろふみ)は、乗客30人の乗ったバスの車内に、火のついた新聞紙とガソリンを投げ込んだ。バスはあっという間に炎上し、多数の犠牲者を出す。 ▼事件発生 昭和55年(1980年)8月19日、21時過ぎ、新宿駅西口のバスターミナル20番線に、京王帝都バス(現:京王電鉄バス)・新宿駅発 中野車庫行きのバスが停まっていた。 バスは発車までの時間待ちで、中にはすでに30人ほどの乗客が乗っており、バスの後ろ側のドアはまだ乗客が乗るために開けられたままだった。 そこへ中年の男が現れ、火のついた新聞紙を突然、その後ろのドアからバスの車内に投げ入れた。そして間髪入れず、バケツに入れて持ってきたガソリン4リットルを火に向かってぶちまけた。 車内は爆発的に燃え上がり、瞬(またたく)く間にバス全体が炎に包まれた。バスの後ろの方に座っていた乗客3人は、身体にガソ
不謹慎(ふきんしん)ゲームとは、大きな犯罪や事故を題材に作られたゲームで、それらの事件を中傷したり悪ふざけをしたりする内容のゲームのことである。昔は地下ゲームと呼ばれていた。 おおっぴらに公開されることはなく、匿名の掲示板やアングラ(アンダーグラウンド)系のページで発表されるのが普通である。全て無料ソフトで、それぞれの説明書には、「配布・転載自由・どんどん広めて下さい」などの記述があるものが多い。 また、作者は不明であることが普通で、分かっているのは、その当時にネット上で名乗ったハンドルネームのみである。 以下のソフトはその代表的なもので、ネットでも話題になり、多くのマスコミにも取り上げられた。 ただし、ここに掲載したものはどれもかなり古い物ばかりである。windows95とか98、pc-98の時代のものが大半である。 不謹慎ゲームとして紹介してあったものを試しに20個くらいダウンロードし
当時、日本を代表する百貨店であった「白木屋」に大火災が発生し、14人もの人々が死亡し、500人以上が重軽傷を負った。死亡者14人のうち、1人は焼死、他の13人は転落死だった。この火災の後、転落した女性たちには、ある共通の理由があったことが報道され、それは後に都市伝説めいた話として現代まで語り継がれることとなった。 ▼白木屋の歴史 白木屋とは、かつて東京市の日本橋(現・東京都千代田区)に存在していた百貨店である。 その歴史は古く、寛文2年(1662年)に小間物店(こまものみせ = 小刀や化粧品などのこまごました物を売る店)として創業を開始したのが始まりである。 創業して間もなく、呉服の部門へと進出を始め、3年後には、越後屋(現・三越)、大丸屋(現・大丸)と並び、江戸の三大呉服店と称されるほどに成長した。創業からわずか数年で、白木屋は大名や大奥までもがお客として訪れるような高級店へと変貌(へん
かつてジョン・パーミントンという人気作家がいた。彼の書く小説は評判も上々で、売れ行きも決して悪くはなかった。 ある日彼が、最新作「海の英雄」を書き上げた時、この小説をもっと効果的に宣伝する方法はないものかとあれこれ考え始めた。 そしてこの時彼が思いついた方法というのは、小説の一部を抜粋して紙に書き、それをビンに入れて海に流すという方法であった。流されたビンは海流に乗って色々な場所にたどり着き、国境を越えて多くの人々が読むかも知れない。 まさしくロマンチックで夢のある宣伝方法である。小説の一部を入れたビンは全部で2000個ぐらい用意され、それぞれが海に流された。そしてこの、手の込んだ宣伝方法は効果を上げ、最新作「海の英雄」は、かなりの売れ行きを示したのである。 そしてそれから16年後、偶然にも小説と同じ名前の「海の英雄号」は実在し、航海に出ていた。 この「海の英雄号」は、大西洋からマゼラン海
1947年7月4日、アメリカ・ニューメキシコ州のロズウェルから70マイル(約112km)離れた地点に何らかの飛行物体が墜落した。 この処理のために、ロズウェル陸軍飛行場から軍関係者が出動し、墜落した航空機の残骸(ざんがい)と、4体か5体の遺体を回収した。 <※ロズウェル陸軍飛行場は、後にウォーカー空軍基地となり、現在では閉鎖(1967年に閉鎖)されている。 墜落現場は、ロズウェルからは結構離れていたが、ロズウェル陸軍飛行場が主にこの処理に当たったために、この事件はロズウェル事件と呼ばれる。> 7月8日、軍は「ロズウェル付近の牧場から、壊れた空飛ぶ円盤を回収した」と発表した。 この発表を受けて、ロズウェル・デイリー・レコード新聞が「軍が空飛ぶ円盤を回収」と紙面に掲載し、AP電によって世界中に知れ渡ることとなった。 しかし軍は最初の発表から数時間後に前言を撤回し、 「回収したものは、空飛ぶ円盤
女子高生が誘拐され、殺害されるという事件が起こった。犯人として石川一雄が逮捕されたが、証拠も不自然なもので冤罪(えんざい)の可能性が高い。石川が逮捕された後、当事者たちの身近にいた人たちが6人も自殺や変死を遂げた。 ▼事件発生 昭和38年5月1日、埼玉県狭山(さやま)市内の、川越高校 入間川分校の1年生である中田善枝さん(16)は、15時30分ごろ自転車に乗って学校を出た。この日は善枝さんの16歳の誕生日で、家族は赤飯を炊いて善枝さんの帰りを待っていた。 しかし18時を過ぎても善枝さんは帰ってこない。後の調査で、善枝さんがガード下で誰かと待ち合わせをしているようなところが目撃されているが、それを最後に行方不明となってしまった。 心配になった長男(25)が学校へ出向き、善枝さんのことを尋ねたが、生徒は全員下校しているとのことだった。 「行き違いで、もう帰っているかも知れない。」そう思った長男
戦中から戦後にかけて、太平洋の小島・アナタハン島に日本人の女が1人と男が32人取り残されてしまった。軍に救助されるまでの6年間、女をめぐっての殺人や行方不明者が相次いだ。 ▼アナタハン島の比嘉和子(ひか - かずこ) サイパン島から北の方へ約117kmの場所に位置する「アナタハン島」。太平洋・マリアナ諸島の小島である。長さは約9km、幅は約3.7kmの小さな島で、島の中心部はジャングルになっている。無人島ではない。 終戦間近の昭和19年(1944年)、当時この島には日本企業である「南洋興発」が進出しており、ここでヤシ林を経営していた。 比嘉和子(ひか - かずこ)(24)はこのアナタハン島に住んでいた。和子の夫・正一が南洋興発の社員であり、アナタハン島に転勤になったためだ。 島にいる日本人は、比嘉和子と夫の正一、そして夫の上司である中里(仮名)の3人。この当時和子は、夫と同居はしていたもの
男は自分の死に場所を求めて旅に出る。行く先々で自分の気持ちをテープに録音しているが、その録音は自分の自殺の瞬間まで記録されていた。 ▼事件発覚 平成6年11月14日、東京都葛飾区 西新小岩の公団住宅の賃貸マンションの一室から、母(49)と娘(23)の二人の他殺死体が発見された。数日前から、電話をかけても出ないことを不審に思った親族が、この部屋を訪ねて発見したのだ。 母の遺体は、四畳半の部屋に敷かれた布団の上で、顔にはバスタオルが、身体には夏用の薄い布団がかけられていた。首にはロープなどで絞められたような跡がくっきりと残っており、寝ているところを絞殺したものとみられた。 娘の遺体は、自室のベッドの上に横たえられており、布団がかけてあった。母と同じように首に絞められた跡が残っていた。 しかしこの家庭の夫である松田雅夫(まさお = 50歳)は行方不明となっていた。この事件は結果的には一家無理心中
首都圏で女性ばかりを狙った連続殺人事件が発生し、犯人として小野悦男が逮捕された。しかし17年近くに及ぶ裁判で出た判決は無罪。マスコミは冤罪(えんざい)のヒーローとして報道した。だがその5年後、小野は逃(のが)れようのない事件を起こす。 ▼首都圏 女性連続殺人事件 昭和43年から49年にかけて、「首都圏 女性連続殺人事件」と呼ばれる、女性ばかりを狙った連続殺人事件が起こっていた。手口に類似性があることから、警察では、これら未解決の一連の事件を同一犯人と判断して捜査を進めていた。 対象となっていた事件は10件で、被害者は12人にも昇っていた。 (1)昭和43年7月13日 (東京足立区の空き地)26歳の女性が強姦されて殺された上に死体が焼かれていた。 (2)昭和48年1月26日 (東京北区)22歳の女性が強姦され、首を絞められて殺された上にアパートに放火された。 (3)昭和48年2月13日 (東
月面で発見された宇宙船や都市の廃墟、オーパーツ以外にも、月は一つの天体として見ても不思議な面が数多くある。 例えば、飛行士達が月から持ち帰った石を年代測定してみたところ、月の誕生は太陽系の起源よりも古いことが判明した。更に、月面ですぐ近くの石同士を持ち帰ったはずなのに、それらの石の年齢は何億年もかけ離れていた。 そしてある石は、その石そのものよりも、その石の上に付着している泥の方が10億年も古いものだった。 月の裏側太陽系の他の惑星にもそれぞれその周囲を回っている衛星はあるが、他の惑星の持つ最大の衛星と比べても、月は地球の衛星としては大き過ぎ、他の惑星と比べて比率が違い過ぎる。また、軌道も他の惑星に比べると地球から遠ざかり過ぎている。 そして月の自転周期と公転の周期はほぼ一致しており、地球を回る軌道は、楕円ではあるが真の円に近い。 いつも同じ面を地球に向けてながら地球を回っており、月の裏側
▼事件発覚 (人物は仮名) 昭和20年8月5日、終戦間近のこの日、群馬県は前橋を中心に大空襲を受け、死傷者1万人を出すという大被害を受けた。この後間もなくして、8月14日のポツダム宣言、9月2日には無条件降伏文書に調印となり、戦争は終結する。 そして終戦から約2ヶ月経った昭和20年10月下旬、群馬県のある村。 ここで巡査をしている可部巡査は、ある日、この村の戸籍調査を行っていた。 先日の大空襲で死亡した者や別の土地に避難した者など、村の住人たちの状況がよく分からなくなっており、不明な部分を調査していたのである。 この村は人口数十人の極めて小さな村で、数軒ずつの集落があちこちに点在している村だった。村での生活は貧しく、戦争の影響で食べ物もほとんどない。それぞれの家も崩れそうな家ばかりで、まともな家にすんでいる人はいなかった。 順次各家庭をまわって、可部巡査は県境に近い、一番端の集落を訪れた。
1829年10月16日、イギリスの帆船「マーメイド号」が19人の乗組員と共にシドニー港を出発した。ところが海に出て4日目に突然嵐に巻き込まれてしまった。必至に舵をとり乗組員たちは懸命に頑張るが、突然襲った大波にマーメイド号は暗礁に叩きつけられ、船は二つに裂けて、乗組員たちは全員海に投げ出されてしまった。 暗やみの中で必死にもがく乗組員たち。ふと見ると100メートルほど先に大きな岩が突き出ているのが見えた。全員そこまで泳いでいき、凍えながらも岩にしがみつき、ひたすら救助を待った。その状態で3日過ぎたとき、近くを航行中の「スイフトシュア号」に発見されて何とか全員救助された。 「ああ助かった・・。」マーメイド号の乗組員たちは全員肩をたたいて喜び合った。スイフトシュア号は、マーメイド号の乗組員たちを乗せて再び動き出した。 ところがその5日後、せっかく救助してくれたスイフトシュア号は突然海図にもない
小学生の誘拐殺人と自分の夫の放火殺人という、二件の事件の犯人にほぼ間違いないとされながらも工工藤加寿子はひたすら黙秘を続け、最終的に無罪を勝ち取る。 ▼消えた少年 昭和59年1月10日午前9時30分ごろ。北海道札幌市 豊平区に住む、城丸 隆氏の家の電話が鳴った。この日はまだ札幌市内の学校は冬休みで、たまたま電話の近くにいた次男で小学校4年生の秀徳君(9)が電話に出た。 この電話も後で考えれば不信な電話だった。電話に出た秀徳君は、家族の誰とも電話を代わらず相手の話を聞いている。たまたま自分宛てにかかってきた電話だったのだろうか。しかも秀徳君は時おり「はい・・はい・・。」と返事をしている。友達と話しているという感じではなく、まるで年上の誰かに文句でも言われているような対応だ。 「誰からの電話?」母親が近寄ってそっと尋ねてみるが秀徳君は返事をしない。間もなく電話は終わり、受話器を置いた秀徳君は、
1783年(天明3年)、浅間山は大噴火した。噴煙は、上空1万メートルにまで達し、その時に流れ出た溶岩流は、付近の村々をあっというまに覆い尽くし、約1200人もの命が失われた。 流れ出た溶岩流は、何もかも焼き尽くしながら吾妻川へと流れ込み、川の岸辺には溶岩と一緒に運ばれてきた凄まじい数の死体と、家屋の残骸が打ち上げられた。 特に火口付近に近かった鎌原(がまはら)村は、わずか十数分の間に村全体が溶岩流に覆われ、この村だけで、477人の犠牲者を出した。だが、村人たちが全滅したわけではなく、何とか93人ほどは、近くの高台に非難し、命拾いしたという。その後、火山の山麓付近では約3ヶ月間に渡って煙がくすぶり続け、歴史的な大災害となったのである。 そして歳月は流れ、ようやくこの大噴火も昔話となりつつあったころ、鎌原(がまはら)村で、驚くような事件が起きた。 ある夏の日、一人の農民が井戸を掘ろうとして、ひ
1702年、イギリスの北ヨークシャー州、サースク村に住むトーマス・バズビーは、妻の父親を殺害した罪で絞首刑に処され、殺人犯としてその一生を終えた。 彼には生前、長年愛用したとてもお気に入りのイスがあり、暇があればこのイスでうたた寝をするというくらい、そのイスが気に入っていた。 このイスは彼の死後も当然残ったのだが、このイスにはバズビーの呪いがかけられているのだという。 バズビーの死後このイスは、妻が家財道具を処分した一環で、「バズビー・ストゥープ・イン」というパブに置かれることになった。ちなみにこのパブの名前は処刑されたバズビーからつけられたものである。 パブに置かれたこのイスは、それが元殺人犯のものであったことや、持ち主が絞首刑になったこと、このイスには呪いがかけられている、などの色々な噂が広まり、酔った勢いで面白がって座る人たちが結構いた。 だが呪いの噂は本当だったのだ。第二次世界対戦
(被害者名は仮名) この事件の犯人である都井睦雄(とい・むつお)は、1917年(大正6年)、岡山県の、ある農家の長男として生まれた。都井(とい)は幼い頃から身体が弱く、学校も欠席しがちだった。15歳と16歳の時に身体に変調をきたし、医者にかかったところ、肺の病であることが分かった。 元々友達もほとんどおらず、家にこもりがちだった都井(とい)は、この病気によってだんだんと自暴自棄になっていく。 都井は19歳になった時、徴兵検査を受けたが「肺結核」と診断され、不合格になってしまった。当時は男たるもの、立派な軍人となってお国のために尽くすというのが最大の名誉とされていた時代だから、この不合格は都井の心にとてつもない衝撃を与えた。 また「結核」という病気も、当時は不治の病とされていた病気であったから、村人たちは都井を異常な目で見るようになり、都井の家の前を通る時には、みんなハンカチで口を押さえて足
女子大生とその家族は、警察に何度も助けを求めたが応対されず、ついに最悪の結末を迎える。事件発生後に埼玉県上尾署の調書改竄(かいざん)や様々な嘘が明るみに出て、警察官12名が大量処分を受ける異例の事態となった。ストーカー規正法が成立される原点ともなった事件。 ▼事件発生 平成11年(1999年)10月26日、午後1時の少し前、埼玉県のJR桶川(おけがわ)駅付近。この日、跡見学園女子大学二年の矢野香織さん(21)は、桶川駅のすぐ近くに自転車を置いて、そのまま電車に乗って新座市にある大学に向かう予定であった。 しかし自転車を置いてその場を離れようとした時に、いきなり何者かに刃物で襲われ、左胸と右の脇腹を刺された。犯人は逃走したが、多数の目撃者がいた。香織さんは上尾(あげお)中央総合病院に運ばれたが、出血多量で死亡した。 報道の第一報では、通り魔と伝えられたが、実は明らかに香織さんを狙っての犯行で
アメリカ・ニューメキシコ州のサンタフェから40kmほど北にある、チマヨという町に、一つの古びた教会がある。この教会には松葉づえや歩行器がたくさん置き去りされている。 なぜこういったものが多く残されているのかというと、この教会にしかない「癒しの土」が、不治の病を直したり、歩けなかった人が歩けるようになったりという奇跡を起こすため、訪れて歩けるようになった人たちが、そうした松葉づえなど置き去りにしていくからである。 見た目は何の変哲もない教会であるが、骨折や歯痛、関節痛、エイズなどの悩みを持った人々が連日訪れ、この「癒しの土」の恩恵にあずかっている。 この「癒しの土」は、「エル・サンチュアリオ」と呼ばれ、教会にある穴から採取される。この土を水に混ぜて飲んだり、直接食べたり、患部に塗ったりすると奇跡的に怪我や病気が治るのである。 この土を求めて訪れる人は年間30万人にものぼる。これだけ多くの人々
2000年11月、アメリカの、ある掲示板に「私は2036年の未来からやって来た。」という書き込みがなされた。投稿者の名前はジョン・タイターと書かれてある。 文章がこれだけで終わっていれば、それは誰も相手をしないようなイタズラ書き込みとみなされるが、この場合の彼は違った。 彼の住んでいる未来の世界で起こった出来事などを語り始め、また、2000年以降に起こるであろう事件の予言めいた文章も投稿し始めた。最初は本気にしていなかったユーザーたちも、次第に彼の話に興味を持ち始め、次々と質問が寄せられるようになった。 自称タイムトラベラーであるジョン・タイターは、この掲示板で山のように寄せられる質問に対し、極めて真面目な態度で丁寧に答えていった。 彼の話は、近未来に起こるであろう出来事の話だけではなく、タイムトラベルの理論や時間の概念、未来人が過去に来て歴史はどうなるのかといった歴史干渉の話などにも及び
広島市で建設中だった「新交通システム・アストラムライン」の工事中、長さ65メートル・重さ53トンの橋げたが10メートル下の道路に落下した。橋げたは信号待ちをしていた11台の車を直撃した。 ▼事故発生 平成3年(1991年)広島市では、「広島新交通システム」の建設工事が行われていた。新交通システムとは、愛称で「アストラムライン」と呼ばれる、広島市内の、道路上空に設置された線路を走る電車であり、そのレールの設置工事が進んでいるところだった。 3月14日、14時5分ごろ、広島市安佐南区上安(あさみなみく・かみやす)2丁目の工事現場で、前日に仮設置されていた、長さ65メートル・重さ53トンの橋げたを、道路上空10mの場所に、ジャッキ操作による作業で設置していたところ、この橋げたが突然落下した。 この橋げたには、すぐ横に平行に走っている道路があり(工事現場は、片側ニ車線の道路の中央分離帯の真上)、こ
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