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- アフロ・アメリカン音楽の源流へ - <さらなる過去への旅> このサイトでは、これまで20世紀後半のポップスについて、ロックを中心にその歴史を追ってきました。そして、ロックの歴史をさかのぼる中でR&Bやブルース、ジャズなどへ至ったわけですが、このコーナーではそこからさらに時代をさかのぼり、1950年代以前へとタイム・スリップしてみようと思います。 先ずは黒人音楽の故郷、その文化の源流でもあるアフリカまで一度戻り、17世紀にアメリカへと船出した最初の奴隷船に乗って彼らの歴史をたどる旅に出発してみたいと思います。アフロ・アメリカンの悲劇的な歴史とそこから生まれた音楽の歴史をたどりながら、1950年へ戻ってきた後、もう一度アメリカにおける黒人文化を見直してみたいと思います。そして最後に現代にたどり着いた時、アメリカという国はどう見えてくるのか?僕自身、新たな発見をしながら書き進めることにな
1917年 - ジャン・コクトー Jean Cocteau , エリック・サティ Eric Satie - <バレエ「パラード」> 第一次世界大戦真っただ中のこの年、フランスのパリで「パラード」というタイトルのバレエが上演されました。演じたバレエ団は当時世界最高と言われていたディアギレフ率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュス)。その舞台の台本を書き、全体の仕掛け人でもあった人物は、詩人のジャン・コクトー Jean Cocteau。彼に誘われて、このバレエの美術と衣装を担当したのは、20世紀を代表する画家ピカソ。そして音楽を担当したのが多くの謎につつまれた異色の作曲家エリック・サティーでした。 まさに夢の共演ともいえるこのバレエは、暗い時代にも関わらず興行的に上手くいっただけでなく批評家たちからも高い評価を受けました。 「『ペレアスとメリザンド』(ドビュッシー作)はわれわれを恍惚とさ
- ビル・グレアム Bill Graham (前編) - <ロック界最大の裏方> ビル・グレアム、60年代から70年代にかけてのロックが好きな人なら、この名を一度は耳にしたことがあるでしょう。サンフランシスコにライブ・ハウス、フィルモアを創設し、フラワー・ムーブメントを育て、モンタレーやウッドストックなどの巨大ロック・イベントを裏で支え、その後ライブ・エイドやアムネスティー・ツアーなどのチャリティー・イベントを実現へと導いたロック界を代表するプロモーター。それがビル・グレアムです。 ロックという音楽が育つ場所を提供し、それがエンターテイメントの一ジャンルとして成立する道筋を整えたという点で、彼の果たした役割りの大きさは、ビートルズに匹敵するかもしれません。 もちろん、彼の功績には功罪両方の面があり、「かつて芸術の域にまで高められたロックの創造性が失われていったのは彼らのせいだ」と言う
<黒人音楽のルーツへ> ブルース、ジャズを生み出した黒人音楽のルーツは、いつ、どこから、どうやって生まれたのか?そして、それはどうやってアメリカ各地へと広がっていったのか?「奴隷制」とは?「黒人霊歌」とは?「ブルース」とは? 世界のポピュラー音楽のルーツともいえる黒人音楽の起源について、遥かな過去へとさかのぼって行きたいと思います。
- レナード・コーエン Leonard Cohen - <ロックの枠組み> ロック・ミュージックの世界は、新しいスタイルをもつアーティストが現れるたびにジャンルの枠を広げてきました。そうした新しいスタイルを持ち込むアーティストの登場があったからこそ、ロックはロックとしての存在感を保つことができたとも言えるでしょう。そう考えると、ロックという枠組みからはずれたところにいるアーティストこそが、本当の意味でロックらしいロックを奏でているとも言えるわけです。 例えば、今はもう完全に音楽活動から離れてしまったキャプテン・ビーフハートやその存在自体が謎だらけなグループ、レジデンツなどは、ポップス・シーンどころかロック・シーンからも遥かに離れたところで活動しています。(彼らについては僕も紹介困難です)そんな彼らにとっては、音楽業界の枠組みやジャンル分けなどどうでもよいことなのです。ただ、僕のような人
- 20世紀を代表する文学作品と作家たち - 「文学」とは何か? その質問に対し、大江健三郎氏はインタビューでこんなふうに言っていました。 「文学とは『新しい人』を創造し、描き出す行為である」 確かに文学と呼ぶに値する作品とは、ドンキホーテやハムレット、ホビット族、エイハブ船長、天吾と青豆、坊ちゃんと赤シャツなど、それまで描かれていなかった新しい人物像を創造したものなのかもしれません。このコーナーはそんな観点に立って、ジャンルに関らずにできるだけ多くの「文学」を載せて行こうと思っています。(ただし、「宇宙戦争」や「タイムマシン」のような例外的作品もあります) このサイトでは、当初は20世紀のポピュラー音楽と映画の歴史を取り上げていました。それはどちらも僕が自分で気に入ったものを年代ごとに集めたごく一部の歴史にすぎませんが、それでもそれぞれの時代を象徴したり代表したりしている作品を選
- ジョセフ・レイモンド・マッカーシー Joseph Raymond MaCarthy - <赤狩り> 「赤狩り」という言葉は、1950年代を語る時、アメリカだけでなく日本など資本主義諸国どこの歴史にも登場するキーワードのひとつです。しかし、そもそも「赤狩り」とは何だったのか?その本質はあまり語られていないように思います。歴史の授業でも、めったに登場しないこの事件についての疑問について調べてみると、「赤狩り」とは実に中身のない空っぽな事件だったことがわかりました。 罪なき人々を次々と悲劇に追い込んだ「赤狩り」は、9/11連続テロ事件への報復と称し無実のイラクに攻め込んだアメリカの政治姿勢と本質的に通じるものがあります。数多くの悲劇を生んだこの事件は、実は笑えるほど安っぽいドタバタ喜劇だったのです。(もちろん、後で振り返るとですが) <その原因> 先ず初めに「赤狩り」の根本的な原因と
- アーネスト・ヘミングェイ Ernest Hemingway - <ラスト・アメリカン・ヒーロー> 20世紀に活躍したアメリカ人作家の中で、最もアメリカ的かつアメリカ人に愛された人物といえば、やはりヘミングウェイなのではないでしょうか。釣りと狩り、ボクシングに闘牛を楽しむアメリカ的でマッチョなライフ・スタイル。海外の戦場にも取材に出かけてゆくお節介なまでのヒロイズム。結婚と離婚を繰り返すソープ・オペラ的な私生活。どれをとっても実にアメリカ的な生き方です。だからこそ、彼は「アメリカの世紀」だったといえる20世紀を代表する作家となりえたのかもしれません。 そのせいか、彼のライフスタイルはアメリカの文化に憧れる人々にとって今もなお理想とされています。だからこそ彼は「パパ・ヘミングウェイ」という愛称とともに永遠のアメリカン・ヒーローであり続けているのでしょう。しかし、そんな憧れの存在である彼
- フィッシュマンズ Fishmans - <世界一の雑食音楽J-ポップ> 元々ロックもソウルもレゲエも、みんな過去に生まれたポップスの混血であり、ルーツをたどることのできない音楽は存在しないと言ってよいでしょう。だから、明らかなパクリだったり、過去の曲をリメイクしたりサンプリング使用した曲だったとしても、その曲が素晴らしければ、それはポピュラー音楽としての役目を果たしていると言えるはずです。そんな中でも、最近のJ-ポップの雑食性は、世界一と言える状況にありそうです。そこには、日本自体にポピュラー音楽文化が希薄なこととか、新しいもの好きの国民性だということとか、いろいろな原因があるでしょう。とにかく、今のJ-ポップは、ほとんど世界のポップスからのパクリで成り立っているのかもしれません。しかし、そのパクリ・ネタの意外性や手法のオリジナリティーが魅力になっているとも言えるのです。 <新しい
- ジャクソン・ポロック Jackson Pollock - <アメリカが生んだ異端の天才画家> パティー・スミスは、かつて「Jackson Pollock Was A Nigger」と歌いました。 タイム誌は、「切り裂きジャック」にひっかけ「ジャック・ザ・ドリッパー Jack The Dripper」と呼びました。 良い意味でも、悪い意味でも、ジャクソン・ポロックは美術界における異端派であり続けたと言えるでしょう。しかし、44歳という年齢での突然の死は、彼をいつしか「伝説のヒーロー」にしてしまいました。最近でも、今やポロック並みの伝説的バンドとなったストーン・ローゼスのセカンド・アルバムのジャケットがまさにポロックの作品そのままだったり、オムニバス映画「ニューヨーク物語」のマーティン・スコセッシ作品「ライフ・レッスン Life Lesson」(ニック・ノルティー、ロザンナ・アークェ
- スラップ・ハッピー Slapp Happy - <スラップ・ハッピー> 1970年代に現れ、数枚のアルバムを残してすぐに解散。その後1998年、20数年ぶりに復活し素晴らしいアルバムを発表し世界を驚かせた後、再び消えていった伝説のバンド。それがスラップ・ハッピーという不思議な名前のバンドです。「スラップ・ハッピー」とは、ボクサーが殴られた時にフッと気持ちよくなる「パンチ・ドランカー状態」の気分をさす言葉で、そこから派生して呑気で楽天的な「なんとかなるさ」的な生き方を表す言葉として用いられているようです。(そこにはドラッグによるハイな精神状態のことも含まれていたのでしょう) しかし、彼らが残したアルバムは、単にお気楽でハイなムードのポップ・ミュージックではありません。美しいメロディーと複雑な構造、そしてセンスの良い編曲によるポップなサウンドではありますが、その歌詞は怪しく輝くナイフの
- フランク・ザッパ Frank Zappa (後編)- <もうひとつの遺産> フランク・ザッパの遺産は、膨大な音楽の記録だけではありません。彼が残したインタビューや文章などにある発言の数々や社会活動家としての行動の数々にも素晴らしいものがあるのです。なかでも、ロックの歌詞を検閲し、レコード・ジャケットに警告ラベルを貼るというPMRC(親たちによる音楽調査センター)の動きに対して行った彼の抗議行動と公聴会での証言は、ロック界だけでなくアメリカ社会全体における彼の存在価値を改めて知らしめました。 それ以外にも、彼はレーガンらを中心とする共和党政権による妊娠中絶禁止の動きにも徹底的に反発しています。 「・・・妊娠中絶の選択の自由は、アメリカ人であるための基本的了解事項である。妊娠中絶反対派は、アンチ・アメリカ人だ。最近の出来事から、アメリカが直面している敵は、はるか遠くの共産主義者なんか
- フランク・ザッパ Frank Zappa (前編)- <無限なるザッパ世界へ> このサイトの開設当初から、いつかは書かねばと思いつつ、なかなか手がつけられなかったロック界の超大物、フランク・ザッパ。あまりに膨大なアルバムの数々をすべて聴くことは不可能に近く、ビデオ、DVD、本などのソフトもとんでもない数にのぼります。まともに立ち向かえば、一生かかってしまうかもしれません。 1993年の彼の死によって、その偉業は無限ではなくなりましたが、生前彼はこう言っていました。 「アメリカのオーディエンスについて、俺がどんなにシニカルな目で見てるか、教えてやるよ・・・もし彼らが俺たちに追いつきつつあるのなら、そりゃこっちが速度を緩めているからにすぎん」 彼にとって、僕の書く文章など、土曜の朝の路上のゲロ程度の価値しかないかもしれませんが、彼が立ち止まった今こそわずかでも彼の世界に迫ってみたい
- 20世紀映画年代記 - <映画の世紀> 20世紀は「戦争の世紀」であると同時に「大衆文化の世紀」でもありました。先進国に住む多くの人々は、その国の経済的繁栄のおかげで余暇と経済的な余裕を獲得。彼らによって「大衆文化」という19世紀にはなかった新しい文化が生み出され、育てられることになりました。「ポピュラー音楽」の世界的な発展はその好例ですが、その他にも「ダンス」「小説」「写真」「スポーツ」「ファッション」「ゲーム」「マンガ」「演劇」など、大衆的文化として広まったものが数多くあります。なかでも、「映画」はその集大成ともいえる大衆文化として、20世紀を代表する存在といえます。「映画」とは、もっとも総合的な娯楽であり、前述の大衆文化すべての影響を受けながら生み出され発展したものです。そして、映画とはその時代の社会状況をそのまま映し出す鏡でもあります。従って、それぞれの年の代表作を見て行くこ
- 自由の獲得と新たな苦難が生んだ心の叫び - <奴隷解放> 1865年、奴隷解放によって黒人たちの生活は大きく変わることになりました。彼らは白人奴隷主の家を追い出され、それぞれの生活をする必要に迫られたのです。自由を獲得したはずが、経済的にはそれ以前よりも厳しくなり、再び小作農として雇われた黒人たちにとって奴隷時代とは変わらない生活が続くことになりました。 ただ、彼らにはそれまでにはなかった自由な時間がわずかながらできました。それまでは、農園の規則により食事と睡眠以外の時間をほとんど労働に縛られていて、教会で仲間たちとともに黒人霊歌を歌う時ぐらいしか、思う存分歌を歌うことができませんでした。それが、仕事を終えた後に個別の自由時間ができたことで、「神」についてではなく「自分」について歌う機会が生まれ、そこから個人のための新しい音楽「ブルース」が生まれることになったのです。 <フィール
- 無名の9人の高校生たちに捧ぐ - <人種共学への取り組み> 1955年モントゴメリー市でのバス・ボイコット運動は、黒人側の見事な勝利で終わりました。そして、この運動を展開する際の重要なきっかけともなったブラウン判決に基づく人種共学への取り組みも、こうした流れを受けアメリカ各地で計画が立てられるようになりました。ところが、それらの動きは実際には計画だけで、そこから先に進まずにいました。それはどの州の知事も、それぞれの州の大物経済人たちから人種共学への動きを進めないよう圧力をかけられていたからでした。(南部は特にその傾向が強かった)しかし、アメリカの憲法によって支持されたその方向性は国家の方針であり、地方の反発は認められませんでした。そのため、いつかどこかで国家と州の方針がぶつかり合い事件に発展する可能性があると予想されていました。1957年、その予想が現実となります。そして、その舞台と
- ニールス・ボーア Niels Bohr - <アインシュタイン唯一のライバル> 「神はダイスをころがさない」 テレビ・ドラマのタイトルにまでなったこの言葉が、かのアインシュタインによるものだということは有名です。しかし、この言葉がいつ何のために、誰に向かって語られたものかを知る人は多くないでしょう。より正確には、アインシュタインはこう言ったとされています。 「あなたは本当に、神がサイコロ遊びのようなことに頼ると信じますか?」それに対して、相手はこう言って切り返しました。 「あなたは、物の性質をいわゆる神の問題に帰するときには、注意が必要だと思いませんか?」 こう言って、アインシュタインをやりこめた人物、彼こそ20世紀の科学を代表するもうひとりの天才物理学者ニールス・ボーアです。しかし、アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞した翌年(1922年)に同賞を受賞したこの物理学者の
- リー・”スクラッチ”・ペリー Lee "Scratch" Perry - <世界最速進化の音楽レゲエ> 世界のポップスの中で、レゲエほど急激に進化をとげ、かつ世界中に広がった音楽は他に類をみないかもしれません。それには、いくつかの理由が考えられます。しかし、なんと言っても、レゲエの故郷、ジャマイカの位置と大きさ、その歴史がポイントだと言えそうです。 ジャマイカは、カリブ海の島々の中でも数少ない英語圏の島です。そのうえアメリカにも近く、ニューオーリンズを中心とするR&Bの影響が、ラジオの電波を通して、常に流れ込んでいます。さらに、面積が狭い分、文化的な影響が広まりやすい地域でもあるのです。(首都キングストンへの一極集中のせいとも言えます)ですから、1960年代、スカタライツなどを中心とするスカ・ブームの時には、ジャマイカ全土があっという間にスカ一色に染まってしまいました。そして、その
- 小津安二郎 Yasujiro Ozu - <追記>2004年1月5日、30日 <改訂>2004年1月17日 <巨匠との出会い> 日本が生んだ偉大な映画監督、小津安二郎との最初の出会いは、大学時代名画座に通っていた1980年頃のことでした。その時、「東京物語」、「麦秋」、「小早川家の秋」などを見ました。もちろん、良い映画だったことは、はっきり憶えているのですが、同じ頃に見た黒沢明監督の初期作品がもつ若々しいパワーに比べると、ちょっと印象が薄かった気がします。 ところが、2003年12月から小津安二郎生誕100年を記念してBS11で放映された数々の作品をみていて、再びあの頃の感動が甦ってきました。それも今度は、あの時の倍くらいになって・・・。初めて見てから20年、僕自身の視点も、小津作品の常連俳優、笠智衆の心境に近くなりましたが、それだけでは説明がつかない数々の感動を再発見すること
- ミルトン・ナシメント Milton Nascimento - <MPBのヒーローたち> 1960年代から1970年代にかけて、ブラジルの音楽界には次々と新たなスターが生まれました。それはかつてボサ・ノヴァが一大ムーブメントとなった時期をも越える大きなうねりとなり、ブラジルのポピュラー音楽の流れを根本的に変えてしまうほどのパワーをもっていました。 ジョルジ・ベンジョール、エドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、シコ・ブアルキ、ドリ・カイーミ、シモーネ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニャ、ガル・コスタ、ジョアン・ボスコ、イヴァン・リンス、ジャヴァン、・・・そしてミルトン・ナシメント。彼らはそれぞれがサンバやボサ・ノヴァだけでなくロックやジャズ、クラシックなどの影響を受けた独自の音楽を生み出そうとしていたため、もともとジャンル分けは困難でした。そのため、いつしかそんな彼
- プリテンダーズ The Pretenders - <変わらぬプリテンダーズの中心> 最近では、いろいろなトリビュート企画にソロとして参加することも多いクリッシー・ハインドですが、彼女のバンド、プリテンダーズもちゃんとバンドとして活動を続けているようです。 元々メンバーの入れ替わりの激しかったこのバンドは、活動を再開するたびに新メンバーが登場していますが、だからといって彼女の強烈な個性がある限りそのサウンドに変化は、ほとんどないと言えそうです。 <音楽評論家、クリッシー・ハインド> プリテンダーズの主役、ボーカル&ギターのクリッシー・ハインドは、いろいろな意味で異色の女性ロック・アーティストです。先ず、プリテンダーズはイギリスのロンドンで生まれたバンドにも関わらず、彼女自身はアメリカ南部オハイオ州アクロンの出身です。 彼女がイギリスに移り住んだのは23歳の時で、イギリスの有名な
- ギル・スコット・ヘロン Gil Scott Heron - <詩のボクシング> 僕はNHKの衛星放送で毎年やっている「詩のボクシング」の大ファンです。リング上で繰り広げられる素晴らしい「言葉」の闘いを見るたびに「詩」の魅力に改めて引き込まれています。 「言葉」のもつ力に感動しつつ、自分の文章にも少しは役立てたいとうつも思うのですが、なかなか難しいものです。今やあらゆるメディアは統合されつつあり、芸術の世界でもやはりジャンルの枠を越えたコラヴォレーションが当たり前になりつつあります。 しかし、そんな状況だからこそ逆に「言葉」という最もシンプルな素材にこだわる「詩人」の存在感はどんどん増しつつあるような気がします。 <詩人を目指した少年> 「詩」は「言葉」。書かれた文字を口に出すことで、心を震わせます。 「音楽」は「音の連なり」。空気を振るわせることで、心を震わせます。 詩と
- ワシーリー・カンジンスキー Wassily Kandinsky - <時代を変えたアーティスト> ワシーリー・カンディンスキー、1866年に生まれ1944年第二次世界大戦の終戦を待たずにこの世を去ったこの天才画家の存在は、このサイトで取り上げている20世紀後半という枠からはちょっとはみ出しています。しかし、彼の作品がその後の画家やアーティストたちに与えた影響の大きさ、そして、彼の作品が未だに多くの人にインパクトを与え続けている事実を考えた時、その存在感は現役のアーティストをはるかに越えているとも言えます。僕自身、彼の作品を最初にじっくりと見たのは、1987年に東京国立近代美術館で行われた大規模な展覧会が初めてでしたが、その衝撃は僕の美術に対する考え方を大きく変え、美術に対する興味を膨らませてくれました。 どの芸術ジャンルにおいても、「時代を変えるアーティスト」は、あらゆるジャンルを
- カート・ヴォネガット・Jr. - <我が文章の師> カート・ヴォネガット、僕の文章術の師匠であると同時に「志し」の面での師匠でもあります。(スティーブン・キングとともに)昔、僕は彼の文章(もちろん翻訳されたものです)を、そっくりそのまま原稿用紙に書き写したり、気に入った部分を書き出したりして勉強させてもらったものです。そうやって書きためた数多くの文章は、今このサイトの<締めのお言葉>として大いに役立っています。 どうやらアメリカでは彼の文章が学校で文章教育のテキストとして使われているらしく、20世紀後半の作家としては最も多く教科書に載った人なのだそうです。元々評論家の間では、彼の文章を幼すぎると批判する人が多かったのですが、そんな子供っぽくてユーモアにあふれた文章だからこそ、多くの若者たちが彼の作品をいち早く理解してくれたのです。それは、絵画における「下手ウマ」(プリミティブな絵画
- トルーマン・カポーティー Truman Capote (前編) - <カポーティーの謎> 当時としては珍しい公認のゲイであり、ど派手な成金趣味の洒落者であり、ダンス好きの目立ちたがり屋であり、酒癖の悪い小太りのおじさんであり、平気で友人を裏切る裏表のある嫌なやつ、そのくせ、愛情を求める淋しがり屋で、うっとうしいほどの世話好き。晩年の彼は周りからそう思われていました。それでもいい話もないわけではありませんでした。彼は巧みな話術により人をひきつける優れた能力を持っており、誰でもひきつける魅力を兼ね備えていたのです。そのおかげで、かつてはニューヨーク社交界の人気アイドルとして一世を風靡していたこともあります。ところが、彼はそんな上流社会のアイドルとしての地位をある日突然失ってしまいました。 なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか? また、彼の伝記映画「カポーティー」では、代表作「
- スコット・フィッツジェラルド(前編) Scott Fitzgerald Part 1 - <成功と挫折のヒーロー> 60年代から70年代にかけて、ロック・ミュージックの黄金時代は多くのヒーローを生み出すと同時に、そこから転落する悲劇のヒーローをもまた数多く生み出しました。例えば、ジャニス・ジョップリンやジミ・ヘンなど多くのミュージシャンが自らの手でその人生を縮めてしまいました。その理由はもちろん色々ですが、時代の影響をぬきに考えることはできません。 しかし、そんなミュージシャンたちの悲劇の人生のことを思うと、それと同じような悲劇的な人生を送った人物は、それとは別の時代にも存在することに気づかされます。例えば、このスコット・フィッツジェラルドです。若くして大きな成功を成し遂げることのできるあこがれの職業として、小説家は現代の60年代のロック・ミュージシャンにあたっていたように思えます
- ヴェルヴェット・アンダーグラウンド Velvet Underground - <広がり続ける影響力> ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、彼らのことを取り上げるのは、ちょっと気合いが必要でした。それは、彼らを単に優れたロック・バンドというくくりだけで紹介するのは、不十分だからです。そして、その広範囲にわたる活動と影響力は、未だに世界各地で拡がりをみせているからです。だからといって、彼らの活動は数多くのジャンルにまたがっていたとか、時代に応じてスタイルを次々と変えていたというわけではありません。彼らが録音したオリジナル・アルバムは、わずか4枚にすぎませんし、その活動期間も、1967年のデビュー・アルバム発表から実質的には4年に満たないのです。まして、衝撃的なデビュー・アルバムを生み出したオリジナル・メンバーによるアルバムは、たった1枚にすぎづ、活動期間中に彼らが音楽的な注目を浴びること
- ジェームス・ブラウン James Brown - Part.1 <ファンクの父> 「ショービジネス界一の働き者」「ミスター・ダイナマイト」「ソウル・ブラザーNo.1」「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」「セックス・マシーン」、そして「ファンクの父」、ジェームス・ブラウン。 マッチョでファンキーでセクシーで暴力的でエゴイスティック、彼に対するイメージは良いもの悪いもの含めて強烈なものばかりです。しかし、これほど型破りで強い個性を持ちながら、半世紀に渡り活躍を続けてきたアーティストは他にいないかもしれません。(もちろん、その間何度となく浮き沈みを繰り返してはいますが・・・) さらに、彼が生み出した音楽は、彼がこの世を去った後もなお生き続け、それを手本としたり、サンプリングしたりするファンキーな音楽を生み出し続けることでしょう。 それにしても、なぜ彼ほどの強烈な個性が生まれたのでしょ
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